われわれは、ボナパルティズムとファシズムとを区別するよう執拗に要求してきたが、それは理論的衒学主義のゆえではない。名称は概念を区分することに役立ち、概念は政治において現実の諸勢力を区別するのに役立つ。もしファシズムを粉砕するならば、それはもはやボナパルティズムのいかなる余地も残さないし、そう期待すべきだが、社会革命への直接の序曲を意味するだろう。
ただ問題は、プロレタリアートに革命の準備ができていないことである。一方の社会民主党とボナパルティスト政府との相互関係、他方のボナパルティズムとファシズムとの相互関係は――根本問題を決定するものではないとはいえ――、プロレタリアートとファシスト反革命との闘争が、どのような道をとおって、どのようなテンポで準備されるのかを明らかにする。シュライヒャー、ヒトラー、ウェルスの三者間の矛盾は、一定の状況のもとでは、ファシズムの勝利をいっそう困難にし、共産党のために新たな貸し付けを、あらゆるものの中で最も貴重なもの、すなわち時間の貸し付けを与えてくれる。
「ファシズムは冷たい道をとおって権力に到達するだろう」と、スターリニストの理論家が言うのを、われわれは一度ならず耳にした。この公式は、ファシストが合法的に、平和的に、連立政権を通じて、公然たる内乱の必要なしに、政権に到達することを意味している。事態はこの予測をすでに退けている。パーペン政府はクーデターによって政権に到達し、プロイセンにおける7・20クーデターによってこれを補完した。たとえナチスと中央党の連立政権が、ボナパルティスト的パーペン政府を「立憲的」方法で転覆すると仮定したとしても、それ自体は依然として、事態を決するものではない。政権にあるヒトラーによる「平和的」な政権獲得とファシスト体制の樹立とのあいだには、なお長い道のりが横たわっている。連立政権はクーデターの実行を容易にするだけであって、それに取って代わるものではない。ワイマール憲法の完全な廃止とならんで、最も重要な任務、すなわちプロレタリア民主主義の諸機関を根絶するという課題が残るだろう。こうした観点からすると、「冷たい道」とはいったい何を意味しているのだろうか? それは労働者の側からの抵抗が存在しないということ以外のなにものでもない。パーペンのボナパルティスト的クーデターは実際、反撃を受けなかった。ヒトラーのファシスト・クーデターも反撃を受けずにすむだろうか? まさに、「冷たい道」に関する予測は、意識的にせよ無意識的にせよ、この問題を中心にしているのである。
もし共産党が圧倒的勢力で、プロレタリアートが直接的な権力獲得へと進んでいたならば、有産者階級の陣営におけるすべての対立は一時的に一掃され、ファシスト、ボナパルティスト、民主主義者は、プロレタリア革命に対抗する同一の戦線に立つだろう。しかし現在の状況はそうではない。共産党の弱さとプロレタリアートの分裂は、有産者階級と彼らに奉仕する諸政党が自分たちの内部対立を公然たるものにすることを許している。共産党はこうした対立を利用することによってはじめて、自らを強化することができる。
だが、もしかしたら、高度に産業化したドイツでは、ファシズムは、全権力を要求する決意をしないのではあるまいか? 疑いもなく、ドイツのプロレタリアートは、イタリアのプロレタリアートよりもはるかに多く、潜在的に強力である。ドイツにおけるファシズムは、当時のイタリアのファシズムよりも数が多く、よりよく組織された陣営を形成しているにもかかわらず、それでもなお「マルクス主義」を清算する任務は、ドイツのファシストにとって困難で危険なものに見えるだろう。その上、ヒトラーの政治的絶頂がすでに過ぎ去った可能性も否定できない。待機の期間があまりにも長引き、ボナパルティズムのかたちで途上に新たな障害物が立ちふさがるならば、それは疑いもなくファシズムを弱め、その内的軋轢を先鋭化させ、その圧力を物質的に弱めるだろう。だがここで、われわれは、現時点では前もって計算することのできない傾向的可能性の領域に入っている。ただ生きた闘争だけがこれらの問題に答えることができる。国家社会主義は必ずや途中で立ち止まるだろうといった想定を前もって立てるのは、最も軽率なことである。
「冷たい道」の理論をその結論にまで持っていくなら、それは「社会ファシズム」の理論よりもけっしてましではない。むしろそれは社会ファシズム理論の裏返しにすぎない。どちらの場合にも、敵陣営の構成要素間の矛盾が完全に無視され、発展過程のあいつぐ諸段階が抹消されている。共産党自体が完全に脇に置かれている。「冷たい道」の理論家ヒルシュ(1)が、同時に社会ファシズムの理論家であったのも、むべなるかな。
ドイツの政治的危機は経済恐慌を基礎にして発展している。しかし、経済もまた不動のものではない。昨日われわれが、景気循環上の危機[恐慌]は資本主義システムの根本的・有機的危機をただ先鋭化するだけだと言わなければならなかったように、今日では、われわれは、資本主義の一般的衰退は景気循環上の変動を排除しないということを指摘しなければならない。現在の恐慌はいつまでも続くものではない。景気の転換に対する資本主義世界の期待は極度に誇張されているものの、根拠がないわけではない。政治勢力の闘争の問題を経済的展望の中に組み入れなければならない。パーペン政府の綱領は、この問題をますます先送り不可能なものにしている。なぜなら、その綱領は経済情勢の好転が接近しているという仮説にもとづいているからである。
景気の回復は、それが商品売上げの増大、生産高の上昇、就業労働者数の増大というかたちで表現されるやいなや、誰の目にも見えるようになる。しかし、それが最初の徴候ではない。景気の回復に先立って、通貨流通と信用の分野における準備過程が存在する。利益にならない企業や産業部門に投下されていた資本が解放されて、流動資本の形態をとり、新たな投資先を求めなければならない。その肥大した在庫や腫瘍や突起物から解放された市場は、真の需要を示さなければならない。企業は市場および企業相互間において「信任」を獲得しなければならない。他方では、世界中の新聞がさかんに論じたてているその「信任」は、経済的要因のみならず、政治的要因(賠償、戦時債務、軍縮と再軍備、等々)によっても刺激されなければならない。
だが、商品の売上げや生産高や就業労働者数の増大は、まだどこにも見られない。それどころか、減少が続いている。しかし、景気の転換に向けた準備過程に関しては、それに必要な課題の主要部分は明らかに満たされている。多くの徴候からして、景気循環における転換の時期が――目の前に迫っているというほどではなくても――接近したとみなすことは、たしかに可能である。これが世界的規模で見た経済情勢の評価である。
しかし、われわれは、債権国(アメリカ合衆国、イギリス、フランス)と債務国(より正確には、破産国)とを区別しなければならない。後者のグループのうち第1位を占めているのはドイツである。ドイツには流動資本はまったくない。その経済は、外部からの資本の流入によってはじめて、はずみを得ることができる。しかし、旧い債務を支払うことのできない国は、新しい貸付を受けることはできない。いずれにしても、融資者たちは、ドイツが再びその輸入額をしのぐ額を輸出できることを確信しないかぎり、その財布のひもを緩めないだろう。この差額が負債の支払いに役立たねばならないからである。ドイツ商品に対する需要が期待されているのは、主として農業国であり、何よりも南東ヨーロッパ諸国である。だが農業国は農業国で、原料や食料品に対する工業国の需要に依存している。ドイツは、したがって、自分の番を待たざるをえない。資本主義的生命の流れは、ドイツ自身の経済的水脈に達するまえに、一連の資本主義的競争相手や農業諸国を経なければならない。
しかしながら、ドイツのブルジョアジーは待ってはいられない。ボナパルティストの徒党はなおさら待てない。パーペン政府は、通貨の安定には手を触れないと約束しながらも、まず実質的なインフレーションを導入する。経済的自由主義の復活に関する演説をぶちながら、パーペン政府は、景気循環を行政的に廃棄しようとし、私的創意の自由の名において、納税者を直接に資本主義企業家の従属下に置く。
政府の計画の中心軸となっているのは、早々に景気が好転するだろうという希望である。これが時機を失せずに実現しないならば、20億マルク(2)は灼熱の火床に落ちた2粒の水滴のように蒸発してしまうだろう。パーペンの計画は、現在ニューヨークの株式市場で進行している高値誘導の動きよりも、はるかにばくち的で投機的な性格を持っている。いずれにせよ、ボナパルティスト的ばくちが破産すれば、その結果はもっと破滅的なものになるだろう。
政府の計画と市場の実際の動きとのギャップの最も直接的で実質的な結果は、マルクの下落である。社会的災厄はインフレーションによって深刻化し、耐えがたい性格を帯びるだろう。パーペンの経済綱領の破産は、それを別のより効果的な綱領に代えるべきだという要求を生むだろう。だが、いったいどの綱領に代えるのか? 明らかにファシズムの綱領である。ボナパルティストの治療によって経済情勢を無理やり好転させることに失敗したならば、ファシストの外科手術が試みられることになろう。その間、社会民主党は「左翼的」なポーズを示しつつ、崩壊するだろう。共産党は、自分で前方に障害物を置くのでないかぎり、成長を遂げるだろう。全体として、このことは革命情勢を意味するだろう。このような状況のもとでは、勝利の展望の問題は、その4分の3までが、共産党のとる戦略の問題にかかっている。
しかし、革命政党は、別の展望に対しても、すなわち景気の転換が予想よりも早く現われる場合に対しても、しかるべき準備をしておかなければならない。シュライヒャー=パーペン政権が、商工業における景気の回復が始まるまで何とか持ちこたえると仮定しよう。これによってパーペン政府は救われるだろうか? いや、景気における上方転換の開始は、ボナパルティズムの確実なる終焉を意味し、あるいはそれ以上のものを意味するかもしれない。
ドイツ・プロレタリアートの力は使い果たされていない。しかし、その力は、1914年に始まる犠牲、敗北、幻滅によって、そして社会民主党の系統的な裏切り、共産党が自らの上に積み重ねた不信によって掘りくずされている。600万ないし700万の失業者は、プロレタリアートの足につながれた重荷である。ブリューニングとパーペンの緊急令は、いかなる抵抗にも会わなかった。7月20日のクーデターも反撃を受けることはなかった。
景気の上方転換が現在衰退しているプロレタリアートの活動に強力な刺激を与えるであろう。われわれはこのことを強い確信をもって予言することができる。工場が労働者の解雇を中止して、新しい労働者を雇用しはじめたとき、労働者は自信を強める。彼らは再び必要な存在になる。ぎゅっと圧縮されたバネが再び伸びはじめる。労働者にとっては常に、新たな陣地を獲得するよりも、失った陣地を取り返すために闘争に突入するほうが容易にできるものである。そしてドイツの労働者はあまりに多くのものを失った。緊急令によっても、国防軍の投入によっても、上昇の波に乗って発展する大衆ストライキを圧殺することはできないだろう。ただ「社会的休戦」によってのみ自己を維持することのできるボナパルティスト体制は、景気の好転の最初の犠牲者となるだろう。
ストライキ闘争の成長はすでに、さまざまな国で見られる(ベルギー、イギリス、ポーランド、そしてアメリカ合衆国の一部。だがドイツでは見られない)。現在発展している大衆的ストライキを、世界的な経済循環の光に照らして評価することは容易な課題ではない。統計は景気循環の変動をつねに遅れてしか明らかにしない。景気回復が統計に記録されるためには、まずもってその景気回復が事実になっていなければならない。労働者はたいてい、統計学者よりも早く経済活動の回復を感知する。新しい注文、あるいはその徴候、生産拡張のための企業の再編、もしくは、少なくとも労働者の解雇の中断は、ただちに労働者の抵抗力と要求を増大させる。イギリスのランカシャにおける織維労働者の防衛的ストライキは、疑いもなく繊維産業におけるある種の上方転換によって呼び起こされたものである。ベルギーのストライキに関して言うと、それは明らかに依然として深刻化しつつある石炭産業の恐慌を基盤として起こっている。世界経済循環の現局面の過渡的で危機的な性格に応じて、ごく最近のストライキにもとづいた経済的脈拍は多様な動きを見せている。しかし、総じて、大衆運動の成長は、経済状況の好転に向けた傾向がかなり存在していることを示しており、この好転はすぐにでも感知されるようになるだろう。いずれにせよ、経済活動の真の回復は、その最初の段階からすでに、大衆闘争の広範な高揚を呼びおこすだろう。
あらゆる国の支配階級は、産業好況から奇跡を期待する。すでに堰を切って拡大している株式投機がこのことを証明している。もし資本主義が本当に新しい繁栄の局面、あるいは緩慢であれ持続的な上昇の局面に突入したならば、それは必然的に資本主義の安定をもたらすだろうし、それに伴って、ファシズムは衰退し、それと同時並行的に改良主義が強化されるだろう。だが、景気の回復――それ自体は不可避である――が、世界経済、とりわけヨーロッパ経済における衰退の一般的傾向を克服することができるだろうと希望したり恐れたりする理由は、これっぽちもない。戦前の資本主義が拡大再生産の表式にしたがって発展したとすれば、今日の資本主義は、そのあらゆる景気変動をとおして、窮乏と破局の拡大再生産を体現している。新たな景気循環は不可避的に、個々の国の内部においても、資本主義陣営全体においても、主としてヨーロッパからアメリカに向けての力の移動と再編をもたらすだろう。しかし、きわめて短期間のうちに、それは資本主義世界を解決不可能な矛盾に直面させ、新たな、そしていっそう恐ろしい動乱に投げ込むだろう。
※ ※ ※
間違う危険を犯すことなく、われわれは次のように予測することができる。すなわち、景気の回復は、労働者の自信を強め、彼らの闘争に新しい刺激を与えるのには十分だが、資本主義、とりわけヨーロッパ資本主義に再生の可能性を与えるにはまったく十分ではない、と。
衰退しつつある資本主義における景気の新たな上方転換が労働運動にもたらす実際の成果は、必然的にきわめて限られた性格のものとなるだろう。ドイツ資本主義は、その経済活動における新たな好況の頂点で、現在の恐慌以前に存在していた状態を労働者に取り戻させることができるだろうか? あらゆることからして、この質問に前もって「ノー」と答えないわけにはいかない。それだけに、目覚めた大衆の運動はいっそう急速に政治の道へと突き進まざるをえないだろう。
産業好況のごく最初の段階だけでもすでに、社会民主党にとってはきわめて危険だろう。労働者は、失ったものを取りもどすための闘争に飛び込むだろう。社会民主党の指導者たちは再び、「正常な」秩序の回復に自分たちの希望を寄せるだろう。その主要な関心は、連立政府に参加するにふさわしい自分たちの本来の役割を回復することに向けられるだろう。指導者と大衆はそれぞれ反対の方向へ向かうだろう。改良主義の新たな危機を最大限利用するために共産党に必要なのは、景気の転換に際して正しい方向性を定めることと、実践的な行動綱領を時機を失することなく準備することである。この行動綱領は、何よりもまず、恐慌の数年間に労働者がこうむった損失を取り戻すことから着手しなければならない。経済闘争から政治闘争にいつ移行するかは、革命的プロレタリア政党の力と影響力を強化する上で特別に重要な要素になるだろう。
しかしながら、他の分野と同じくこの分野において成功をものにすることができるのは、統一戦線政策を正しく適用するという条件がある場合のみである。ドイツ共産党にとって、このことが意味するのは、何よりも、労働組合運動の分野において、二兎を追うような現在の政策を終わらせること、自由労働組合に向けた確固たる路線をとり、赤色労働組合反対派(RGO)の現在のカードルたちを自由労働組合の隊列に引き入れること、労働組合を通じて工場委員会に対する影響力を勝ち取るための系統的な闘争に着手すること、生産の労働者統制のスローガンのもと広範なカンパニアを準備することである。
『ドイツにおける反ファシズム闘争』(パスファインダー社)所収
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訳注
(1)ヒルシュ、ウェルナー……ドイツのスターリン派のジャーナリスト。
(2)20億マルク……パーペン政府は、9月初めに出した緊急令において、大企業に対する大幅減税、雇用促進に対する大企業への国家補助、新規雇用に際しての賃金引下げなど、財界の意向に一方的に沿った一連の反労働者的改革を命じた。「20億マルク」というのは、この大幅減税の総額を指している。
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