7月中旬に、「赤色統一戦線」をどのようにして結成するかに関して、社会民主党労働者から出された21の質問に対するテールマンの回答をおさめた小冊子が発行された。小冊子は次のような言葉で始まっている。「反ファシスト統一戦線は力強く突き進む!」。7月20日、共産党は、労働者に政治的ストライキを呼びかけた。この訴えには何の反響もなかった。こうしてわずか5日のうちに、官僚的レトリックと政治的現実とのあいだの悲劇的深淵が明らかになったのである。
共産党は、7月31日の選挙において530万票を獲得した。この結果を巨大な勝利と吹聴することによって、はしなくも共産党は、この敗北にどれほど自分の主張や希望がくじかれたかを示した。3月13日の大統領選挙の第1回投票で、共産党はほぼ500万票を獲得した。つまり4ヵ月半の間に――何という月日だったろうか!――30万票足らずを増やしたにすぎない。3月の時点で共産党の機関紙は、もしもこれが国会選挙だったならば、得票数は比較できないほど大きかったろう、すなわち大統領選挙においては、何十万の支持者は、「プラトニック」な示威のために時間を空費するのは余計なことだとみなすからだと、何百回となく繰り返した。この3月のコメントを考慮に入れると――それは考慮に入れるに値いするのだが――、共産党はこの4ヵ月半の間、事実上成長しなかったということになる。
4月に、社会民主党はヒンデンブルクを大統領に選出した。するとヒンデンブルクは、社会民主党を直接の対象とするクーデターを実行した。この事実だけでも、改良主義の機構を根底からゆさぶるのに十分だったと考えられよう。これに加えて、恐るべき結果を伴って危機はいっそう深刻なものになった。最後に、7月20日、つまり国会選挙の11日前に、社会民主党は、自分が選出した連邦大統領のクーデターの前に、あわれに尻尾をまいて屈服した。このような時期には、革命政党は熱病的に成長する。鉄の万力に締め上げられた社会民主党が何をどうしようとも、社会民主党は労働者を自分より左へ押しやるしかない。だが、共産党は、嵐のような勢いで前進するかわりに、足踏みし、狐疑逡巡し、後もどりし、一歩前進しては、半歩後退する。7月31日に共産党が票を失わなかったというだけで、勝利の凱歌をあげることは、現実感覚を完全に失うことを意味する。
例外的に有利な政治的条件のもとで、いかにしてなぜ革命政党が屈辱的な無能力に陥ったかを理解するためには、社会民主党労働者に対するテールマンの回答を読まなければならない。それはうんざりするような不愉快な仕事だが、スターリニスト指導者の頭脳で何が生じているかを明らかにするだろう。
「共産主義者はパーペン政府の性格をどのように評価するか」という質問に対して、テールマンは相互に矛盾したいくつかの回答を与えている。彼は、「ファシスト独裁がただちに確立する危険性」に言及することから始めている。ということは、ファシスト独裁はまだ存在していないということになのか? 彼は政府メンバーについて、まったく正しくも「トラスト資本、将軍、ユンカーの代表者たち」と言っている。しかし、そのすぐあとで、彼はこの同じ政府について、「このファシスト内閣」と述べ、その回答を「パーペン政府は……ファシスト独裁をただちに確立することを目的としている」という主張で結んでいる。
ボナパルティズム、すなわち、軍事的・警察的独裁にもとづく「国内平和」の体制と、ファシズム、すなわち、プロレタリアートに対する公然たる「国内戦争[内乱]」の体制とのあいだの、社会的および政治的相違を無視することによって、テールマンは自分の目の前で起こっていることを理解する可能性をあらかじめ自分から奪っているのである。もしパーペン内閣がファシスト内閣だとするなら、テールマンはいったいどのようなファシストの「危険性」について語っているのだろうか? 労働者がテールマンにならって、パーペンがファシスト独裁を確立することを目的としていると信じるならば、ヒトラーとパーペン=シュライヒャーとのあいだに起こりうる衝突は、ちょうどかつてパーペンとオットー・ブラウン(1)とのあいだの衝突のように、党の不意を打つだろう※。
※英語版編者注
この文章は8月はじめに書かれている。すなわち、ヒンデンブルク=パーペンとヒトラーとのあいだの交渉が起こる以前、そして、パーペンとヒトラーとの衝突が起こる以前に書かれている。「ドイツ共産党は、統一戦線について真剣であるか」という質問に対して、テールマンは当然ながらこれに肯定的に答え、その証拠として、共産党はヒンデンブルクおよびパーペンにへいこらしていないという事実を持ち出している。「いや、われわれは、闘争の問題、とくに、システム全体に対する闘争、資本主義に対する闘争の問題を提起する。そしてここに、われわれの統一戦線の真剣さの要石がある」。
テールマンは明らかに、何が問題になっているのかを理解していない。社会民主党労働者が依然として社会民主主義者にとどまっているのはまさに、資本主義から社会主義への漸進的・改良主義的転化の道を信じているからこそである。共産主義者が資本主義の革命的転覆の立場に立っていることを知っている社会民主党労働者はこう質問する、「君たちはわれわれに統一戦線を真剣に提案するのか?」と。これに対して、テールマンは答える。「もちろん、真剣だ。なぜならわれわれにとっては、資本主義システム全体の転覆が問題なのだから」と。
もちろんわれわれは、社会民主党労働者に対して何かを隠そうなどとは夢にも思っていない。だが、事物の限度というものを知り、政治的均衡を守らなければならない。熟達した宣伝家なら、次のような形で答えるべきだったろう。「君たちは民主主義を頼みの綱にしている。われわれは、唯一の道が革命の中にしかないと信じている。しかし、われわれは、君たちなしで革命を行なうことはできないし、そうすることを望んでもいない。現在、ヒトラーは共通の敵である。奴を打ち破ってから、われわれは君たちといっしょにバランスシートを引き出し、この道が実際にどこに通じているかを確かめようではないか」。
テールマンの小冊子の聞き手は、一見したところ奇妙なことに、話し手[テールマン]に対して寛大な態度をとるだけでなく、何度もうなずきさえする。しかしながら、この寛大さの秘密は、テールマンの話し相手が「反ファシスト行動隊」に所属しているばかりでなく、共産党に投票するよう呼びかけている人々であるという点にある。つまり彼らは、共産主義の側に移行した元社会民主党員なのだ。このような新入党者はもちろん歓迎するのみである。だが、問題全体の欺瞞性は、社会民主党と手を切った労働者との対話を、社会民主党大衆との対話であるかのように紹介している点にある。この安直な仮面舞踏会は、テールマン一派の現在の政策全体をきわめてよく特徴づけている!
いずれにせよ、その元社会民主党員は、実際に社会民主党大衆の気持ちをかき乱すような質問を提起する。「反ファシスト行動隊は、共産党のフロント組織ではないのか?」と彼らは質問している。テールマンは答える。「ちがう!」。その証拠は? 反ファシスト行動隊は「組織ではなく大衆運動」だからである。まるで、大衆運動を組織することが共産党の任務ではないかのようである。第2の論拠はさらに見事だ。すなわち、反ファシスト行動隊は無党派である、なぜなら(!)、それは資本主義国家に矛先を向けているからである。「すでにカール・マルクスは、パリ・コミューンの教訓を分析する中で、ブルジョア国家機構を破壊する問題を労働者階級の任務として、きわめて先鋭な形で提起した」。ああ、何と不運な引用であることか! なぜなら、社会民主主義者たちが望んでいるのは、マルクスがどうであれ、ブルジョア国家を破壊することではなく、それを完成させることだからである。彼らは、共産主義者ではなく、改良主義者なのである。テールマンは、その意図に反して、まさに自分が反駁したいと望んでいること、すなわち「反ファシスト行動隊」の共産党的性格を証明している。
共産党のこの公式指導者[テールマン]は、明らかに社会民主党労働者の置かれている状況も、その政治的思考も理解していない。テールマンは、統一戦線がいかなる目的に奉仕するものであるのかを理解していない。その文章の一つごとに、彼は改良主義的指導者に武器を供給し、彼らの側へ社会民主党労働者を追いやっている。
社会民主党とのどんな共同行動も不可能であるということを、テールマンは次のように証明している。
「これとの関連でわれわれ(?)がはっきりと理解しなければならないのは、社会民主党が、今日みせかけの反対活動を行なっているときでさえも、ファシスト・ブルジョアジーとの実際の連合志向やそれとの取引を一瞬たりとも放棄していないことである」。
たとえこれが本当だとしても、経験を通じてこのことを社会民主党労働者に証明するという課題が残っている。だが、実際にはそれは本当ではない。社会民主党の指導者が、ブルジョアジーとの取引を放棄することを望んでいないときでも、ファシスト・ブルジョアジーは社会民主党との取引を放棄する。そしてこの事実は、社会民主党の運命にとって決定的なものとなる。パーペンからヒトラーに権力が移行したならば、ブルジョアジーは断じて社会民主党を容赦しないだろう。内乱には内乱の法がある。ファシスト的テロの支配は、社会民主党の粉砕を意味するだろうし、そうでしかありえない。ムッソリーニはまさにこのように始めたのであり、それは、よりいっそう野放図に革命的労働者を粉砕することができるようにである。いずれにせよ、「社会ファシスト」は自分の命を大切に思っている。現時点において、共産主義者の統一戦線政策は、社会民主党が自己の生命に対して抱いている危惧を出発点としなければならない。それは最も現実的な政策であり、したがってまた最も革命的な政策であろう。
しかし社会民主党が「一瞬たりとも」ファシスト・ブルジョアジーと決別しないとすれば(マッティオッティ(2)はムッソリーニと「決別」したが)、反ファシスト行動隊に参加することを望む社会民主党労働者は、社会民主党を去らなければならないのだろうか? 一つの質問はこのように書かれている。これに対して、テールマンは答える。
「われわれ共産主義者にとって、社会民主党ないし国旗団[社会民主党の擬似軍事組織]の労働者が、彼らの党を去ることなしに反ファシスト行動隊に参加できるのは、言うまでもないことである」。
自分がいっさいのセクト主義から解放されていることを示すために、テールマンはさらに続ける。
「諸君が大挙して何百万も合流してくるなら、われわれは喜んでこれを迎えるだろう。ドイツ社会民主党の評価に関するある種の問題について、われわれの見解からすれば、諸君の考えには依然として曖昧さがあるとしても、である」。
まさに金言! われわれは、諸君の党をファシスト的であるとみなし、諸君はそれを民主的であると考えているが、小さな問題で言い争わないでおこう。諸君が、君たちのファシスト的政党を難れることなしに「何百万と」われわれのもとへやって来るならば、それで十分である。「ある種の問題に対する曖昧さ」は障害になりえない。だが、残念ながら、全能なる官僚の頭にある曖昧さが一歩ごとに障害となっている。
問題を深めようとして、テールマンはつけ加える。「われわれは党と党との問題としてではなく、階級的基盤にもとづいて問題を提起する」。ザイデヴイッツ(3)のように、テールマンは階級の利益のために党の利益を否認するつもりでいる。不幸なことに、マルクス主義者にとって、そのような対置関係は成り立たない。党の綱領が労働者階級の利益の科学的定式化でないとすれば、そんな党には一文の値打もないだろう。
しかし、原則問題における俗悪な誤りを別としても、テールマンの言葉には、実践上の不条理さも含まれている。どうして党と党との関係という問題を提起することができないのか、問題の本質がまさにそこにあるというのに? 数百万の労働者が社会民主党にしたがっている。他の数百万は共産党にしたがっている。われわれは今日、どのようにして君たちの党とわれわれの党とのあいだで反ファシズムの共同行動に達するのか――こう尋ねる社会民主党労働者に対して、テールマンは答える。「党ではなく、階級にもとづいて」、何百万となくわれわれに合流せよ、と。これこそ最も哀れなたわごとではないだろうか?
テールマンは続ける。「われわれ共産主義者は、どんな代償を払っても統一を望んでいるわけではない」。われわれは、社会民主党との統一のために、「われわれの政策の階級的内容を否認」することはできないし、「……ストライキ、失業者の闘争、賃借人の行動、大衆の革命的自衛を放棄することはできない」。限定された実践行動についての協定は、社会民主党との馬鹿げた統一に歪められる。明日における最終的な革命的攻撃が不可欠であるということから、今日における共同のストライキや自衛活動が許されないという結論が引き出される。テールマンの思想に一定の筋や理屈を通すことができたら、表彰ものである。
テールマンの聞き手は質問を続ける。「パーペン政府およびファシズムに対する闘争において、共産党と社会民主党との同盟は可能だろうか?」。テールマンは、社会民主党がファシズムと闘わないことの証拠として2、3の事実を挙げ、こう結論する。「われわれが、これらの事実にもとづいて、また原則的な理由のために(!)、共産党と社会民主党との同盟が不可能だと言ったならば、社会民主党員のどの同志もわれわれが正しいと言うだろう」。官僚はまたしても、証明されなければならないものをすでに証明されたものとして前提する。数百万の労働者を包含する組織との統一戦線の問題に関して、テールマンが、社会民主党員は、自分たちの党と共産党との同盟が不可能であることをはっきり認識しなければならない、なぜなら社会民主党はファシスト的であるから、と答えるとき、最後通牒主義はとくに滑稽な性質を帯びる。ウェルスとライパルト(4)にとって、これ以上の助けが考えられるだろうか?
「社会民主党指導者とのあらゆる共同歩調をはねつけるわれわれ共産主義者は、……闘うことを切望している戦闘的な社会民主党員や国旗団の同志たち、および戦闘的な下部組織(?)とともに、反ファシスト闘争を行なう準備がいつでもととのっていることを繰り返し宣言する」。
だが、どこまでが下部組織なのか? そして、もし下部組織が上部組織の規律に服しており、交渉を上部組織から開始するよう提案してきたなら、いったいどうするのか? 最後に、下部組織と上部組織とのあいだには中間的諸段階がある。戦闘を望む者と戦闘を忌避する者とを画する線がどこを通るのかということを予言することができるだろうか? これはただ行動によってのみ決定されることで、事前の評価によってではない。自分の手足を縛ることにどんな意味があるのか?
7月29日付『ローテ・ファーネ』は、国旗団の集会に関する報道の中で、社会民主党の中間幹部の注目すべき発言を掲載している。「大衆の中には反ファシスト戦線統一の意志が存在している。指導者がこれを考慮に入れないならば、私は彼ら乗り越えて統一戦線へと進むだろう」。共産党の機関紙は、この言葉を注釈なしに転載している。しかし、この言葉に統一戦線戦術全体の鍵がある。この社会民主党員は共産党員とともにファシストと闘うことを望んでいる。彼はすでに自分の指導者の善意に疑いを抱いている。指導者が拒否するならば――と彼は言う――、私は彼らを乗り越えるだろう。同じような気構えをもった社会民主党員は、数十、数百、数千、数百万も存在する。社会民主党の指導者が闘争を望んでいるかどうかをこれらの社会民主党員に実地に示すことこそ、共産党の任務である。それを証明することができるのは、経験によってのみ、新たな状況における新しい生き生きとした経験によってのみである。この経験を一撃で獲得することはできない。社会民主党の指導者たちを試練にかけなければならない。工場や職場において、都市や農村において、全国規模で、今日も明日も、である。われわれは何度も提案を繰り返し、それを新たな形態で、新しい角度から、そして新しい情勢に適応した形で、提起しなければならない。
しかしテールマンは以上のいずれもしようとはしないだろう。「共産党と社会民主党とのあいだに存在する原則上の意見の相違にもとづいて、われわれは社会民主党との、上からの交渉を拒否する」。テールマンはこの驚くべき論拠を何度となく繰り返す。だが、「原則上の対立」が存在しないとしたら、2つの党は存在しないだろう。そして2つの党が存在しなければ、そもそも統一戦線の問題も提起されないだろう。テールマンは、あまりに多くのことを証明したがる。量は少なくとも質のよいものを。
赤色労働組合反対派(RGO)の結成は――と労働者は尋ねる――、「組織された労働者階級の分裂」を意味するのではないか? いやそうではない、とテールマンは答える。そして、その証拠として、美的・感傷的博愛主義者に反対して書かれた1895年のエンゲルスの手紙を持ち出す。いったいどこの裏切り者がこの引用文をテールマンに手渡したのか? テールマンは言う。RGOは、分裂の精神によってではなく、統一の精神にのっとって結成されている。そのうえ労働者は自分の組合組織を離れなくてもRGOの一員になることができる。それどころか、RGOのメンバーは、労働組合内部で反対派活動を遂行するために、その中にとどまっている方がいいだろう。このテールマンの言葉は、社会民主主義的指導部と闘うという任務を自己に課している共産党員にとっては、説得力をもって響く。だが、労働組合の統一を懸念する社会民主党労働者に対する回答としては、テールマンの言葉は嘲弄にしか響かない。
「どうして君たちは、われわれの労働組合を見棄てて、自分たちの別組織をつくったののか」と社会民主党労働者は問いかける。
「もし君たちが、社会民主党指導部と闘うためにわれわれの別組織に加入することを望むなら、君たちに諸君の労働組合から離脱することを要求しないだろう」とテールマンは答える。適切な回答だ、爪先ほどの正しさだが!
「共産党内部に民主主義が存在するだろうか」と、労働者は他のテーマに移って尋ねる。テールマンは肯定的に答える。まったくそうだ! しかし、思いがけなくも彼はただちにつけ加える。「合法的にも非合法的にも、とりわけ後者の場合、党は、スパイ、挑発者、警察の手先に対して警戒しなければならない」。この挿入句は偶然ではない。正体不明のビュッヒナーの小冊子によって世界に宣言された最新の教義は、スパイに対する闘争のために民主主義を圧殺することを正当化している。スターリン官僚制の専制政治に対して抗議の声を上げる者は誰であれ、少なくとも疑わしい人物として宣言されなければならないというわけだ。あらゆる国々の警官の手先や挑発者は、この理論を熱狂的に歓迎するだろう。彼らは、他の誰よりも大騒ぎして反対派を狩りたてるだろう。この理論は、彼ら自身に対する注意を他にそらし、彼らがどさくさにまぎれて漁夫の利を得ることを可能にするだろう。
民主主義が十分に保障されていることは、テールマンによれば、「問題がコミンテルンの世界大会および執行委員会会議で扱われている」という事実によっても証明されているそうである。話し手[テールマン]は、最後の世界大会がいつ行なわれたかを報告し忘れている。われわれがそれを思い出させよう。それは1928年7月であり、4年以上も前だ! どうやらそれ以降、注目すべき問題は何も起きなかったようだ。ついでに質問しておきたいのだが、なぜテールマン自身は、ドイツ・プロレ夕リアートの運命がかかっている問題を解決するために、ドイツ共産党の臨時大会を招集しないのか? その原因が党内民主主義の過剰にあるのではないことだけはたしかである。
こうして、テールマンは1頁また1頁と、21の質問に答えている。どの回答も誤っている。つまり合計で21の誤謬。小さな二義的な誤りは数えずにである。そして、その種の小さな誤りは無数にある。
テールマンは、ボリシェヴィキが1903年にメンシェヴィキと決別したと語る。実際には、別党への分裂は1912年にはじめて起こった。しかしそれでも、1917年の2月革命後には、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの合同組織が国のいたるところで見られた。4月のはじめになってもまだ、スターリンは、ボリシェヴィキとツェレテリ(5)の党[メンシェヴィキ]との合同に支持を表明していた。統一戦線ではなく、両党の合併に、である。これは、レーニンの到着によってようやく阻止された。
テールマンは、ボリシェヴィキが1917年に憲法制定会議を解散したと述べている。しかし実際にこれが起きたのは1918年のはじめである。テールマンは、ロシア革命とボリシェヴィキ党の歴史にまったく通じていない。
しかしながら、もっと悪いことには、彼がボリシェヴィキ的戦術の基本を理解していないことである。その「理論的」論文において、彼は、ボリシェヴィキが、コルニーロフ(6)に対抗してメンシェヴィキおよび社会革命党と協定を結んだ事実を論駁しようとしている。その証拠として彼が引証しているのは、誰かから適当に教えられた引用文だが、それらは問題とはまったく無関係である。だが彼は次の質問に答えることを忘れている。すなわち、コルニーロフ反乱の時期、全国に人民防衛委員会が存在していたのではなかったか? それらはコルニーロフに対する闘争を指導したのではなかったか? ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエルの代表者たちは、この委員会に属していたのではなかったか? しかり、しかり、しかり。メンシェヴィキと社会革命党はそのころ権力の座にあったのではなかったか? 彼らはボリシェヴィキをドイツ参謀本部の手先として弾圧していたのではなかったか? 数千のボリシェヴィキが投獄されていたのではなかったか? レーニンは非合法に身を隠していたのではなかったか? しかり、しかり、しかり。どんな引用文がこれらの歴史的事実に反駁することができようか?
テールマンは思う存分、マヌイリスキー、ロゾフスキー(7)、スターリン(彼がそもそも口を開くとしたらの話だが)に訴えるがよかろう。しかし、レーニン主義と10月革命の歴史からは静かに立ち去るがよい。それは彼にとって7つの封印書である。
最後に、われわれは、それ自身独立したもう一つ別の問題についてはっきりさせておかなければならない。それはベルサイユ条約に関するものである。社会民主党労働者は、共産党が国家社会主義に政治的譲歩をしているのではないか、と質問している。テールマンは、その回答において、あいかわらず「民族解放」のスローガンを擁護しつづけており、それを社会解放のスローガンと同じ地平に置く。賠償――現在、残っている部分――は、テールマンにとって、生産手段の私的所有と同じくらい重要である。この政策はもっぱら、労働者の注意を根本問題からそらせ、資本主義に対する闘争を弱め、主要な敵と窮乏の原因を国境の反対側に求めることを余儀なくさせるために、考え出されたものである。しかしながら、現在はかつてないほど「主要な敵は国内にいる!」。シュライヒャーはこの考えをはるかに粗野な形で表明した。まずもって――と彼は7月26日のラジオ放送で宣言する――「国内の下司野郎を片づけ」なければならない。この軍人的定式化は見事だ。われわれは喜んでこれを取り上げる。すべての共産主義者は、これをしっかり自分のものにしなければならない。ナチスが注意をベルサイユにそらせようとしているのに対して、革命的労働者はシュライヒャーの言葉でもって彼らに応酬しなければならない。いや、まずもって国内の下司野郎を片づけなければならない、と!
1932年8月17日
『ドイツにおける反ファシズム闘争』(パスファインダー社)所収
新規
訳注
(1)ブラウン、オットー(1872-1955)……ドイツ社会民主党の指導者の一人。1920〜21年、1922年、1925〜1932年、プロイセン政府の首相。1932年7月20日、パーペン中央政府の緊急令によってブラウン内閣は解散させられる。1933年、ヒトラーの政権掌握後に亡命。
(2)マッティオッティ、ジアコモ(1885-1924)……イタリアの政治家。イタリア統一社会党の書記、議員。1924年、ファシストが大勝した後の国会で、ファシストの不正選挙とテロリズムを国会で糾弾。それが原因で、ムッソリーニの手先に暗殺。この暗殺事件をきっかけに、イタリア中に反ファシスト運動が巻き起こった。
(3)ザイデヴィッツ、マックス(1892-?)……ドイツ社会民主党の左派で、1931年10月に社会民主党から離脱し、社会主義労働者党(SAP)を創設。その後、SAPから離れ、1933年にスウェーデンに亡命。第2次大戦後、東ドイツの党および政府の中でいくつかの重要なポストに就いた。
(4)ライパルト、テオドール(1867-1947)……ドイツの労働組合指導者で、社会民主党主導の「自由労働組合」の組織者。後にドイツ労働総連合(ADGB)の議長。第2次世界大戦後、東ドイツでスターリニスト党と社会民主党の合体を主張。
(5)ツェレテリ、イラクリー(1881-1959)……ロシアの革命家、メンシェヴィキの指導者。第2国会の議員。1912年に流刑。1917年2月革命後、流刑地から戻ってきてペトログラード・ソヴィエト議長。5月に、郵便・電信相として第1次臨時政府に入閣。6月、第1回全ロシア・ソヴィエト大会で中央執行委員会議長に。7月事件後、第1次臨時政府の内相に就任。1918年にグルジアのメンシェヴィキ政府の首班。1921年に亡命。
(6)コルニーロフ、ラブル(1870-1918)……帝政ロシアの軍人、陸軍大将。1917年の2月革命後、ペトログラードの軍管区司令官、ついでロシア軍最高司令官。8月に臨時政府に対する軍事クーデターを企てるが、ボリシェヴィキの前に瓦解。この反乱は「コルニーロフの反乱」あるいは「コルニーロフの軍事クーデター」として有名で、7月事件後に弾圧され押さえ込まれていたボリシェヴィキの勢いを再び強め、10月革命への序曲となった。10月革命後、白軍を組織し抵抗するが、敗北し、戦死。
(7)ロゾフスキー、ソロモン(1878-1952)……ロシアの革命家。1901年からロシア社会民主党員。1909年にパリに亡命し、第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1917年に、全ロシア労組中央会議書記。1921〜37年、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)の議長。
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