(1) 労働過程の考察について、我々はそれを、人間と自然との間の過程として、その歴史的な形式からは離れて、抽象的な概念として取り扱うことから始めた。(第七章を見よ。) 我々はそこではこう述べた。「もし、労働過程の全体を、その結果と云う視点から調べるとすれば、労働手段と労働対象は共に生産手段であり、労働自体は生産的な労働である と云う素朴なものとなる。」そして同じページの注2で我々はさらにこう付け加えた。「労働過程だけの視点から、何が生産的労働であるかを決定するこの方法は、資本主義的生産過程のケースに直接適用することは決してできない。」そこで我々は、今、この主題をさらに発展させることにしよう。
(2) 労働過程が、純粋に個人的なものである限りにおいては、一人のそして同じ労働者は彼自身のうちに、後には分離される機能の全てを結合している。一人の個人が自然物を彼の暮らしに用いようとする時、彼自身以外には誰もそれを制御する者はいない。後には、彼は他の者に制御される。単独の人間は彼自身の頭脳の制御の下で彼自身の筋肉を動かすことにしなければ大自然に働きかけることはできない。自然の肉体、頭脳、そして手は互いに助け合うが、そのように労働過程は手と頭脳の労働を互いに結合する。後には、それらは仲間を分かち、そして致命的な敵にすらなる。生産物は、個人の直接的な生産物であることをやめ、そして社会的な生産物となる。一つの集合的労働者による共同の生産物となる。すなわち、労働者の組み合わせで、彼等はそれぞれ一部分のみの作業を担い、その量に多少はあるものの、彼等の労働対象を取り扱う。労働過程の協同的性格がより顕著になるに従って、同様に、必要な一つの連携として、我々の生産的労働の意味も、それを担う生産的な労働者の概念も様々となる。生産的に労働するためには、あなた自身のために手作業をする必要はもうなくなる。もしあなたが協同的労働者の一器官であるならば、その一つの副次的な機能をなせば十分である。最初に述べた生産的労働者に与えた定義、物質的な生産の性質から引き出された定義は、依然として、全体を見た場合の、協同的労働者にあっては正しい。だが、それぞれの各個人メンバーにとってはもはや正しさを保持することはできない。
(3) とはいえ、他方、我々の生産的労働の概念は狭くなる。資本主義的生産は単に商品の生産なのではなく、本質的に剰余価値の生産なのである。労働者は、彼自身のためではなく、資本家のために生産する。であるから、もはや、彼が単純に生産するのであろうでは十分とは云えない。彼は剰余価値を生産しなければならない。資本家のために剰余価値を生産する労働者のみが生産的なのである。資本の自己拡大のための労働がまた生産的労働なのである。仮に、物質的な物の生産領域から外に出て、例を取り上げて見るならば、教師は、彼の学生の頭脳に働きかけるのに加えて、学校経営者を富ませる馬として働くときにのみ、生産的労働者となる。後者が彼の資本を、ソーセージ工場に替えて教育工場に投資しても、この関係は変わらない。かくして、生産的労働者の概念は、単に労働と有用な結果との間の、労働者と労働の生産物との間の関係のみでなく、特別なる、生産の社会的関係、歴史的に出現し、労働者に剰余価値創造の直接的な手段であることを刻印する社会的関係を意味する。従って、生産的労働者であることは幸運の見本ではなく不幸の見本である。第四巻では、この理論の歴史を取り扱う。そこでは以下のことがより明白になろう。剰余価値の生産が、古典派政治経済学者らによって、生産的労働者の際立った性格として四六時中言及される。かくして、彼等の生産的労働者の定義は、彼等の剰余価値の性状によって変えられる。たとえば、重農主義者らはただ農業労働が生産的であると言い張る。それだけが剰余価値を生産すると云い続けて来た。なぜそのように云うかと云えば、彼等にとっては、剰余価値の実体はただ地代形式で存在しているだけだからである。
(4) 彼の労働力の価値に見合う等価分を生産するであろう時点を超えての労働日の延長と資本家によるその超過労働の占有、これが絶対的剰余価値の生産である。それは資本主義的システムの一般的基礎を形成し、また相対的剰余価値生産の開始点を形成する。後者(訳者注: 相対的剰余価値の生産)にあっては、労働日は予め、必要労働と剰余労働の二つの部分にわけられているものとして想定されている。剰余労働を延長するために、必要労働は、賃金に相当する等価分をより少ない時間で生産する方法によって縮小される。絶対的価値の生産は他でもなく労働日の長さの上にのみあり、相対的剰余価値の生産は、労働過程の技術的な変革に次ぐ変革と、社会構成の変革の上にある。従って、特別な様式、資本主義的生産様式が、その方法、手段そして条件の他に、労働の資本への形式的な従属によってもたらされる基礎の上にあたかも自然のように相対的剰余価値を生成し発展させるような様式が前提される。その発展につれて、労働の資本への形式的な従属が実際の労働の資本への従属に置き換えられる。
(5) 剰余労働が生産者から直接の強制力によって強奪されておらず、また生産者自身依然として資本に対して形式的な従属にも至っていないある種の中間形式については触れておくだけで足りよう。そのような形式では資本は労働過程への直接的な制御権をまだ獲得してはいない。手工業や農業を伝統的な旧式な方法によって行う独立の生産者達のそばには、金貸しや商人が、金貸し資本または商人資本を持って現れ、寄生虫のごとく生産者達にとりつく。社会において、このような搾取形式が顕著であることは資本主義的生産様式を排除している。とはいえこの形式は資本主義的生産様式に向かって、中世の終りに向かってあたかも移行への役割を果たすものであろう。最後に、近代「家内工業」で見たように、ある種の中間形式は近代工業の背後であちこちに再生産される。とは云っても、それらの外観は全く違ったものにされているのではあるが。
(6) 一方において、もし、労働の資本に対する単なる服従形式が絶対的剰余価値の生産に十分なるものとするならば、すなわち、以前は自分自身の利益のために働いていた手工芸業者または親方の徒弟として働いていた者が資本家の直接的支配の下で働く賃金労働者になったことで絶対的剰余価値の生産に十分なるものとするならば、他方において、我々が見て来たように、相対的剰余価値の生産方法が、なんと、同時に絶対的剰余価値の生産方法となる。いやそれ以上のものとなる。労働日の大幅な延長が近代工業の特異な生産物となったのである。一般的に云えば、明確なる資本主義的生産様式が、生産の全部門を征服するやいなや、さらにあらゆる重要部門を征服するやいなや、単なる相対的剰余価値の生産手段であることを止める。そしてその様式が一般化し、社会的にも生産の主要形式となる。相対的剰余価値の特別なる生産方法として有効に残る場合は、単に、その一つは、以前は形式的に資本に従属していた工業を支配下に置いたにすぎない場合、つまり宣伝係としてであり、その二としては、その工業が資本下に捉えられて、生産手段の変更によって変革される途上にある場合のみである。
(7) 一つの見地から見れば、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との間のいかなる違いもはっきりしないだろう。相対的剰余価値は絶対的剰余価値となる。なぜならば、労働日の絶対的延長が彼自身の生存に必要な労働時間を超えて強制されるからである。絶対的剰余価値は相対的剰余価値である。なぜならば、必要労働時間を労働日の狭い部分に閉じ込めることを許すような労働生産性の発展が不可欠となるからである。だが、もし我々が剰余価値の挙動をしっかりと見るならば、このそれぞれの個別的な外観は消え去る。一旦資本主義的生産様式が確立され、一般化すれば、いかに剰余価値率を高めるかと云う問題に直面すれば、立ち所にして、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との間の違いは自ずから関知されるものとなる。労働力の価値が十分支払われるものと仮定すれば、以下の選択肢に対面する。労働生産性と労働の標準的強度が与えられるならば、剰余価値率は労働日の実際の延長によってのみ上昇されうる。他方、労働日の長さが与えられるならば、労働日の構成部分の相対的大きさの変化のみによって、剰余価値率は上昇されうる。すなわち、必要労働と剰余労働の。その変化は、仮に、賃金が労働力の価値以下に下落しなとすれば、労働生産性または労働の強度のいずれかの変化に依存する。
(8) もし労働者が彼自身および彼の種族のための必要な生活手段を生産するのに彼の全ての時間を必要とするならば、他人のために無償で働くような時間は彼には残っていない。彼の労働にある程度の生産性の向上がなければ、彼にはそのような余分な時間も持つことはできない。そのような余分な時間もなく、余剰労働もなければ、その結果として資本家はおらず、奴隷所有者も、封建領主もいない。別の一つの言葉で云えば、大きな財産を持つ階級はいない。*1
本文注 *1 「資本家ご主人のご存在、明確なる階級としての存在は、工業の生産性に依存している。」(ラムゼー 既出 206ページ) 「もし各人の労働が単に彼自身の食料を生産するだけのものであるならば、そこに財産はできないであろう。」(ラベンストーン 既出 14, 15ページ)
(9) 剰余価値は、自然の基礎の上に置かれていると、我々は云うことができよう。だが、それはごく一般的な感覚でのみ許されることで、人が自分自身の生存のための必須の労働の荷を下ろして、他人に負わせることに対する絶対的な自然障害はないと云うことや、さらに、例えば、人をして、他人の肉体を食すること*2を妨げるような越えがたい自然障害はないという感覚の話である。
本文注 *2 最近の計算によれば、既に探索された地球の様々な場所で依然として少なくとも4,000,000人の食人人種がいる。
(本文に戻る) 時々見られることだが、神秘的な観念はこの歴史的に発展した労働生産性には決して結びつけてられてはならない。一人の剰余労働が他人の生存の条件となることが生じるようになるには、ただ、人が自分自身をして動物の状態を超えて、従って彼等の労働はある程度までに社会化されて後の事である。文明の曙光時点、労働によって獲得されたその生産性は小さく、また同様に彼等を満足させる手段によってまたそれとともに発達する欲望も小さい。さらに、初期的段階では、他人の労働の上で生活する社会の一部分の比率は直接的な生産者集団と比べれば、無限小と云える。労働生産性の進歩につれて、かの社会的小比率部分も絶対的かつ相対的に増大する。*3
本文注 *3 「アメリカ原住民インディアンにあっては、あらゆるものが労働者のものである。99%は労働によって分配される。英国では、多分、労働者は2/3も受け取れない。」(東インド商売の利益云々 73ページ)
(本文に戻る) 更に加えて、資本およびその付帯関係は長き発展過程の生産物である経済的土壌から撥ねだしてくる。労働生産性こそ、その基礎としての、出発点としての役割を果たす。労働生産性は、自然の贈り物ではなく、何千世紀の時間を束ねた歴史の贈り物なのである。
(10) 社会的生産の形式において、その発展の度合の大小を考えないものとすれば、労働生産性は物質的条件に拘束される。これらの全ては人そのもの(人種他)の体つきと辺りの自然に関係する。外的物質条件は二つの大きな経済的区分に落とし込める。(1)生存手段における自然の豊かさ、すなわち肥沃な土壌、豊富な魚あふれる水、その他、そして(2)労働手段としての自然の富、例えば落水、航行できる河川、木材、金属、石炭 他である。文明の夜明け時点では、第一の区分が決定的であり、より高い発展段階では、第二の区分が重要である。例として、英国とインドとを、または古代のアスネとコリントを黒海周辺地と比べて見よ。
(11) 充足への避けがたい自然な欲望の数が少なければ少ない程、そして土壌の自然な肥沃度と気候の好順さが大きければ大きい程、生産者の維持と再生に必要な労働時間は少なくなる。従って、彼自身のための彼の労働を超えて、他人のための彼の超過分の労働を大きくすることができる。ディオドロスは遥か昔古代エジプト人におけるこの関係について触れていた。
(12) 「全くのところ、彼等の子供たちを育てるための障害と支出が彼等にとってはほとんどないのは信じがたいほどである。彼等はまずは子供たちのための簡単な食事の料理を手で行う。火で焙ることができるならば、彼等は子供たちにパピルスの下の方の茎を食べ物として渡す。沼地の植物の根や茎を、時には生で、あるいは茹でたり焼いたりする。ほとんどの子供たちは、履物もはかず裸である。それだけ空気が温暖なのである。であるから、一人の子供が成長するまでに彼の親が必要とする費用は全くのところ20ドラクマを越えることはない。このことは、何故エジプトの人口が多いかを、それゆえ何故多くの巨大な作業が行えるのかをよく説明している。」*4
本文注 *4 ディオドロス 既出 第一巻 第一編 第80章
(13) とはいえ、古代エジプトの巨大建造物はその人口の多さによるものと云うよりは、その人口の大きな部分が自由に使えたからと云える。個人としての労働者は彼の必要労働時間が少ないのでそれに比してより大きな剰余労働ができたからである。労働人口についてもその様に云える。生存手段として必要な生産のための時間が小さければ小さい程、それだけ、より大きな時間部分を他の仕事のために当てることができる。
(14) 資本主義的生産が以前にもあったと仮定してみるならば、そしてさらに、他のすべての状況が同じに留まるものとし、労働日の長さが与えられているものとすれば、剰余労働の量は労働の物理的条件によって変化するであろう。特に、土壌の肥沃度によって変化するであろう。しかし、最も肥沃な土壌が生産の資本主義的様式の成長に最も適合していると云うことには全くならない。この様式は人間が自然を支配することの上に成り立っている。自然があまりにも豊かであれば、自然は人をしてあたかも引き綱に繋がれた子供の様にそのままにしよう。自然は彼に彼自身を発展させる必要をなにも課すことはない。*5
本文注 *5 「第一は(自然の富は)、最も高潔で有益なものであるが、それゆえ、人々をして無頓着、高慢、そして過剰に埋もれる。ところがこれに反して、第二は、宗教心、文学、芸術そして政策を強いる。」(外国貿易による英国の富、または、我々の外国貿易の均衡は我々の富の法則である ロンドンの商人であるトーマス マンの著作. 今ここに、彼の息子であるジョン マンによって公益のために出版された。ロンドン 1699年 181, 182ページ) 「また、私は、生存のための品々と食料がほとんどのところ自然そのままにあり、気候も衣服や住まいの覆いをなんら要求せず、それを認めるような、そんな場所に放置された人々よりも大きな災いを思いつかない。…. 極端にこれとは違う側もあるかもしれない。とはいえ、土壌が労働によってしても生産が不可能なことは、何の労働もなくして有り余る程の産出がある土壌と全く同じ災いなのである。」( 現在の食料高価格に関する研究 ロンドン 1767年 10ページ )
(本文に戻る) 植物の繁茂する熱帯ではなく、温帯こそ、資本の母国なのである。単なる土壌の肥沃さではなく、土壌の違い、自然の産物の多様性、季節の変化、これらこそが社会的分業の物理的基礎を形成したのである。そして、この周囲の自然の変化が、人をして彼の必要を倍加し、彼の可能性を、彼の労働手段や様式の倍加に拍車をかける。自然の力を社会的な制御の下に置くために取り込む必要がある。無駄なく、相手を上手に利用したりねじ伏せたりし、人間の手の労働によって広範なものとする必要がある。それが工業の歴史においては最初の決定的な役割を演ずる。例えばエジプトにおける潅漑であり、*6
本文注 *6 ナイル川の季節的な水量の上昇・下降を予測する必要がエジプト人の天文学を創り出した。そしてそれと共に農業の管理者としての僧侶の統治をも創り出した。「天の始点はその年の重要なる時点であって、ナイルが上昇し始める時であり、エジプト人たちにとっては最大の注意をもって監視するべき重要な時点なのである。…. それは太陽の回帰年が更新される時であり、彼等の農作業をそれに合わせて実施するするよう明確に確定しなければならない。従って、彼等は、天の始点の回帰の目に見える兆しを天に探し求めねばならなかったのである。」 (キュビアー 天の回帰に関する研究 オーフエル版 パリ 1863年 141ページ) (フランス語 英訳付き)
(本文に戻る) ロンバルディア、オランダの潅漑であり、またはインドやペルシャの人工的運河による潅漑で、土壌に不可欠な水と共に土壌を供給するのみならず、沈殿物の形で山から鉱物性肥料をも運び下ろす。アラビア人支配下のスペインやシシリーの産業の繁栄状態の秘密は彼等の潅漑事業の数々にある。*7
本文注 *7 インドの小さな他とつながりを持たない生産組織への国家の力の物質的な基礎の一つは水の供給の調整であった。インドの回教徒の支配者はこのことを、後の英国の後継者よりもよく分かっていた。英国下のベンガル行政区のオリッサ地区で起こった百万人以上のヒンズー教徒の命を奪った1866年の飢餓事件を思い起こせば十分であろう。
(本文に戻る) 更に加えて、資本およびその付帯関係は長き発展過程の生産物である経済的土壌から撥ねだしてくる。労働生産性こそ、その基礎としての、出発点としての役割を果たす。労働生産性は、自然の贈り物ではなく、何千世紀の時間を束ねた歴史の贈り物なのである。
(15) 好都合な自然条件だけでは、単に我々にその剰余労働の、剰余価値の、剰余生産物の可能性を与えるだけであって、その実体を与えるものでは決してない。労働の自然的条件の違いの結果は、違う国々で、同じ労働量が、必要なものの違う量を、充足することになる。*8
本文注 *8 「同じ数の生活に必要なものを各同じ量で、そして同じ労働量で供給する二つの国はない。人の必要は彼等が住む気候の温度の厳しさによって増えたり減ったりする。それゆえ、異なる国の住民が必要のために遂行を迫られる仕事の量は同じものとはなり得ない。(訳者の小注: 英文は the proportion of trade である。この文献でのtrade の意味は広くかつ極めて一般化されている。ブルジョワジー特有の単語である。解雇も多分この範疇か。) また、暑さ寒さの度合以上にその変化の度合を説明する有意なものは見当たらない。ここから人は次のような結論を得るであろう。一定数の人々のために必要な労働の量は寒い気候では最大となり暑い気候では最小となる。なぜならば、前者の人々はより多くの着るものが必要であるばかりでなく、後者よりも多くの土地の開墾を要する。(自然がもたらす利益率の支配的な原因に関する評論 ロンドン 1750年 60ページ) この画期的な匿名の書の著者はJ. マッシーである。ヒュームは彼の利子論をここから着用した。
(本文に戻る) 従って、他の事柄が同様だとしても、各環境下において必要労働時間は異なる。これらの条件は剰余労働に対して自然的な限界としてのみ影響する。すなわち他人のための労働を始めることができる時点を決める。工業が進んだ段階ではこれらの自然的限界は後退する。我々の西ヨーロッパ社会の中では、労働者は彼自身の生活のために剰余労働をもってただ支払うことのために、働く権利を購入する。この考え方は剰余生産物を供給することが人間的労働の生来の性質であるとする思考を容易に定着させる。*9
本文注 *9 「全ての労働は必ず ( このことは市民の権利と義務の一部分として現れる) 剰余生産物を残さなければならない。」プルードン (フランス語 英訳付き)
(本文に戻る) しかし考えても見よ。一例を上げるが、アジア群島の東の島の住民のことを考えて見よ。そこでは森の中にサゴ椰子が野生している。
(16) 「木に穴をあけて、髄が熟していると住民が確信すれば、幹は切り倒され、いくつかの部分に分けられ、髄液が取り出される。水と混ぜて、濾過すれば、サゴ粉として使用に適合するものができる。一本の木は通常300ポンドを産出する。時には500から600ポンドの木もある。だから、そこでは、丁度我々から見れば薪を刈るように、人々は森に行って彼等のパンを切るのである。」*10
本文注 *10 F. ショウ 「土地、植物、そして人」第二版 ライプツィヒ 1854年 148ページ
(17) それでは考えて見よう。この様な東洋のパン刈り人が、彼の全欲求を満足させるために週12時間の労働を必要としているとする。自然の彼に対する直接的なギフトは沢山の暇な時間である。彼はこの暇な時間を生産的に自分自身のために用いることができるが、その前に、歴史的な全経過の様々なものが必要とされる。彼がその時間を剰余労働として見も知らない人達のために費やすには、その前に、強制が必要とされよう。もし仮に、資本主義的生産が導入されたならば、この正直な友は多分、1労働日の生産物を彼自身のものとするために、週6日働かねばならないであろう。自然の恩恵は、何故彼が週6日働かねばならないのか、や、また、何故5日の剰余労働を供出しなければならないのかを説明しない。ただ、何故彼の必要労働時間が週1日に限られているかを説明するだけであろう。つまり、彼の剰余生産物が人間労働の生来の神秘的な性質から生じると説明することはないであろう。
(18) この様に、歴史的に発展した社会的生産性だけではなく、自然由来の生産性もまた、かように労働と混ぜ合わされて、資本の生産性として現れる。
(19) リカードは全くこの剰余価値の起源についてはなんら気にもとめない。彼はそれをあたかも資本主義的生産様式に本来備わったものとして取り扱う。彼の目にはこの様式は社会的生産の自然形式なのである。彼が労働生産性について議論するときはいつも、彼はその中に剰余価値の原因があると云うのではなくて、只々、価値の大きさを決める原因があるとしてそれを捜し求める。その一方で、彼の学派は率直に労働生産性は利潤捻出 ( ここは、剰余価値(頭文字は大文字) と読むところ ) の原因であると宣言する。このことはなにはともあれ、重商主義者らに比べれば進歩の痕はある。重商主義者らはかく云う。生産物をその価値以上に売ることから、取引行為から、生産物の生産に要したコストを越える価格の上前を引き出すと。なのに、そこまで云っていながら、リカード学派はこの問題を全く回避した。彼等はこの問題を解かなかったのである。は、本当のところは、このブルジョワ経済学者達は、剰余価値の起源と云う火中にある問題を深く突つき回すとことは非常にやばい(訳者のこのやばい訳については章末の余談で触れる。) と本能的に睨んで、正しく対応したのである。しかし、リカードから半世紀も後になってやってきて、リカードの初期の低俗で卑劣な回避の弁を下手くそに繰り返し、重商主義者らを超越したと勿体ぶって主張する ジョン スチュアート ミル をなんと考えたらいいだろう?
(20) ミルはこう言う。
(21) 「利益の原因は、労働が労働の維持に必要なもの以上を生産することにある。」
(22) この限りでは、古き物語と何も違わない。しかしミルは彼自身のなんやらを追加したがる。そしてこう言う。
(23) 「定理の形式を変えて云えば、資本が何故利益を生み出すかの理由は、食料、衣料、材料、そして道具が、それらを生産するに要する時間よりも長持ちするからである。」
(24) 彼は、このように、労働時間の長さとその生産物の寿命の長さとを、つまり長さの概念をごちゃ混ぜにしている。この見解に従えば、わずか1日しか持たない生産物をつくるパン屋は彼の労働者たちから、機械屋が20年もそれ以上も長持ちする生産物をつくるような利益を引き出すことはできないであろう。勿論のことだが、以下のことは全くもって正しい。もし鳥の巣が、それを作るに要する時間よりも長持ちしないならば、鳥は巣なしで居なければならないだろう。(一寸茶々を入れる。訳者とんでも余談: 鳥の巣があるのは事実であるから、鳥資本は利益を生み出しているのである。ミルも笑うだろうな。でも自分の論理の珍妙さに気付くかどうか。)
(25) ひと度この基礎的事実が確立されると、ミルは重商主義者らに対する彼自身の優越を次のように確立する。
(26) 「我々は、このように、見る。」と彼は続ける。「利益は生み出される。偶然的な交換からではなく、生産的労働力から生産される。そして、国の一般的利益は、常に、交換がなされようとなされまいと、生産的労働力が作り出すものなのである。もし仕事の区分がなく、買いも売りもないとしても、そこには依然として利益が存在するであろう。」
(27) かように、ミルにとっては、交換、買い、売り、それらの資本主義的生産の一般的条件は、ただの偶然であって、労働力の買いも売りすらもなしに常に利益があるのであろう!
(28) 「もし」と彼は続ける。「国全体としての労働者たちが、彼等の賃金よりも20% 多く生産したとしたら、利益は、価格がどうであれどうでなかろうと20% となるだろう。」これは、一方では、稀に見る見事な同義反復である。もし労働者たちが資本家に対して20% の剰余価値を生産するならば資本家の利益は労働者の全賃金額に対して、20 : 100 となるであろうから。だが他方では、「利益は20% になるであろう。」というのは絶対的な誤りである。なぜならば、それらの利益は、前貸し資本全総計(イタリック)に対して計算されるからである。もし、例えば、資本家が500ポンドを前貸ししたとして、そのうちの400ポンドを生産手段に投じ、100ポンドを賃金に当てたとしよう。そして剰余価値率が20% とすれば利益率は 20 : 500 となるであろう。それすなわち 4% であって、20% ではない。
(29) そして、ミルの、社会的な生産の様々な歴史的形式を取り扱う方法の見事な例が続く。
(30) 「私は、一貫して、もののあり方を仮定して論を進める。そこでは、わずかな例外を除いて、世界的に、労働者たちと資本家達とに分けられた二つの階級が存在している。そして言うなれば、資本家は、労働者の全給料も含めて、すべての支出を前貸しする。」
(31 ) 珍妙なる目の錯覚、あらゆるところに二つの階級があるとは。我が地球上においては全く例外的なもののあり方としてしか存在していないものを。*11
本文注 *11 資本論の以前の版では、ジョン スチュアート ミルからの引用文 「私は、一貫して、もののあり方を仮定して論を進める。…. 労働者の全給料も含めて、すべての支出を前貸しする。」は正しくはなかった。「労働者たちと資本家達とに分けられた二つの階級が存在している。」の部分が抜け落ちていた。マルクスは、1878年11月28日付けの手紙で、資本論のロシア語翻訳者であるダニエルソンにこれを付け加えるように伝えた。(イタリック)
(本文に戻る)それはともかくとして、我々は最後まで見ていこう。−ミルが正論と思っているところを。
(32) (訳者注: 資本家は、労働者の全給料も含めて、すべての支出を前貸しする に続いて述べているところなのである。) 「彼がそのようにすべきと云うことは生来 必要としている事柄ではない。」今度は逆で、「労働者は、彼の全賃金がその必要分以上にあるならば、そしてまた、ともかくも彼が彼の一時的な生活費として十分な蓄えを持っているならば、生産物が完成するまで待つであろう。特に、後者の場合、労働者は、ある程度までは、その事に関して、まことに資本家である。その蓄えの一部を生活費のための必要として支出するからである。」
(訳者小余談: 彼はある程度までは、事業に投資して、その継続に必要な基金の一部を提供する資本家であろう。が向坂訳である。いくらブルジョワ経済学者の論であってもこれでは、まるで労働者が資本家に投資しているようであって意味不明だし、ミルの論としての珍妙さも失っている。)
(33) ミルは、さらに踏み込んでこう付け加えたかったようだ。労働者が彼自身の生活に必要なものだけでなく、生産手段としても、彼自身に前貸しするならば と。そんなものはありもしない彼自身の賃金労働者の話である。彼はまた次のように云うのかも知れない。アメリカの小作農民所有者は、本当のところ、彼の領主のためにではなく、彼自身のために労働を強いる奴隷である。
(訳者小余談: アメリカの農民は主人なる他人のためにではなく、自分自身のためにのみ強制労役に服する、彼自身の奴隷である。が向坂訳である。これでは、前段と同様の面白さはあっても、労働者と資本家の面白話の二重性を失っていてもったいない。)
(34) ミルは、かくのごとく、資本主義的生産が存在すらしていなくても、依然として常に存在しているであろうことを明瞭に証明したのち、今度は逆に、存在を持たぬものを、何時なりと存在すると示すことにも まことに首尾一貫的である。
(35) 「そして、一貫して、前者のケースですら」 (労働者が、生活必需品のすべてを資本家から前貸しされる当の賃金労働者である場合の労働者そのものであっても)「同じように見えるであろう。」(すなわち、資本家として)「なぜかと云えば、彼の労働を市場価格よりも安く提供するからである(!) 彼はこの差額(?)を、彼の雇用主に貸したものと見なされ得る。そして利益他とともにそれを返してもらう。」*12
本文注 *12 J. St. ミル 政治経済学の原理 ロンドン 1868年 252-253ページのあちこちに
(36) 実際には、労働者は彼の労働を、例えば一週間、週の終りにその市場価格を受け取るために、無償で資本家に前貸しする。それが、ミルに従えば、彼を資本家に変換したとなる。平原ではただの土の盛り上がりが山に見える。そして現在のブルジョワジーの馬鹿げた平面はその偉大なる知性の高さによって計測される。
適切な置き場所でなくて申し訳ないが、訳者余談である。スミスは彼の国富論で、最初のところに労働が全ての根源であることに触れている。だが以下、そのことを全く無視して論を述べる。リカードにはその一片もないが、それに触れることはやばいと感じて避けていると資本論は指摘している。さてこの訳であるが、資本論にはやばいというあまり品のよくない言葉があると云うとんでもない解説が生じるのを防止するために、ここの英文とこの部分のドイツ語からの向坂訳を示して置く。英文は、it is very dangerous である。やばいというのは訳者のやばい能力に起因しているだけである。向坂訳は、剰余価値の起源にかんする焦眉の問題を、あまり深く究めることは非常に危険だ、という当然の本能をもっていたのである。とほぼ正確に訳されている。当然の本能というのが多少気になるが、それはなぜ当然なのかという歴史的感覚を見せて、面白い。ミルに至ってはこの問題感覚もないし、危険のきの字もないばかりでなく、労働者を資本家にする。現代のブルジョワ経済学の退歩が早くも完成し、国債の泥の高さをもって経済を謀るだけのものとした。エール大学の浜田某教授の論は、これと印刷術しかない。
[第十六章 終り]