カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第四篇 相対的剰余価値の生産


第十三章 協 同 作 業



  (1) 我々が既に見て来たように、資本主義的生産は、各個々の資本が比較的大きな数の労働者を同時に雇用することが、唯一の出発点であり、そして実際にそこから始まる。その結果、労働過程は、広い規模で遂行され、相対的に大きな量の生産物を産出する。多くの数の労働者達が一緒に働き、同時に、一つの場所で、(または、あなたがそう云うならば、同じ労働の範疇で) 一人の資本家の支配の下、同じ種類の商品を作るために働くことは、歴史的にも、論理的にも、いずれにも、資本主義的生産の出発点を構成する。生産様式自体から見れば、その厳密な意味で、その初期の段階では、製造業を、ギルド的手工業商売から区別することはほとんどできない。ただ、一つの、同じ個としての資本によって大勢の労働者が同時に雇用されている事以外には、区別できるところはない。中世の手工業者の主人の作業所が単純に大きくなったものに過ぎない。

  (2) それ故、最初においては、その違いは純粋に、量の違いである。我々は、ある与えられた資本によって生産された剰余価値と、同時に雇われた大勢の労働者によって、合算された個々の労働者によって生産された剰余価値とが同じであることを見て来た。労働者の数自体は、剰余価値率や労働力の搾取の程度に関して、影響することはない。もし12時間労働日が6シリングの中に体現されているとすれば、そのような1,200日は、6シリングの1,200倍に体現されるであろう。一つの場合では、12×1,200労働時間が、もう一つの場合は、日12時間のそのような大勢による労働が生産物に一体化される。価値の生産においては、労働者の数は、それだけの多くの個の労働者の数と同じ並びでしかない。従って、1,200人が別々に働こうと、一人の資本家の支配下で結合されて働こうと、生産された価値には何らの差も作らない。

  (3) にもかかわらず、ある一定の制約下においては、ある変化が起こる。価値として実現された労働は、平均的社会的労働であり、それゆえに、平均的労働力の支出である。とはいえ、どの平均的大きさも、同一種類に属する全ての個別の大きさの数々の平均でしかない。それぞれはその量としては異なっている。いずれの製造業でも、個々の労働者は、ピーターとかポールとかいう名の者だが、平均的労働者とは違っている。これらの個々の違いは、数学的には「誤差」と呼ばれもするが、ある最低数の労働者が一緒に雇用される場合には、いつも互に相殺されて違いは消滅する。有名な詭弁家であり追従者であるエドムンド バークは、彼の農園主としての実践的観察者としての立場から、次のごとき主張をするまでに至る。すなわち、「まことに小さい小隊でも」例えば5人の農場労働者でも、全ての個人的差は労働の中では消滅する。結果的には、いかなる与えられた成人5人の農場労働者を一緒に用いても、他のいかなる5人と同じ時間に同じだけの労働をする。と。*1

  本文注: 1*「ある人と他の人との労働の価値は、力においても、器用さにおいても、また誠実なやり方においても、そこにかなりの差があるのは、疑問の余地がない。だが、私の最良の観察から、いかなる与えられた5人でも、彼等の全体で見れば、他のいかなる5人と等しい一定の労働を、ある一定期間提供しできる。と私が述べたことは、今でもその通りと思っている。そのような5人の中に、一人はよき労働者としての全ての資質をもっており、一人は劣り、他の3人は普通だが、うちの一人は良いほうに、もう一人は劣る方にいるとしても、そのようにできる。であるから、そのような、小さな、僅か5人の小隊であっても、あなたは、完全なる5人が稼ぎ得る全ての完全な総量と同じ量を見るであろう。」(E. バーク 既出) ケトレーの 平均的個人 と比較せよ。

  しかし、いかにその通りであるとしても、同時に雇用された大人数の労働者の全体としての労働日を、これらの労働者の数で除算したものが、一日の平均的社会的労働であることもはっきりしている。例えば、各個人の労働日が12時間であるとしてみよう。同時に雇用された12人の全体労働日が144時間であり、そして1ダースのそれぞれの労働が平均的社会的労働から多少上下にはずれたとしても、彼等のそれぞれが同じ仕事のために違った時間を要したとしても、それぞれの労働日は、依然として前と同じ、全体としての144時間労働日の1/12なのである。それは、平均的社会的労働日の質を保持している。ではあるが、この12人を雇用した資本家の視点から見れば、全1ダースの労働日である。各個人の労働日は全労働日の一分数部分であり、12人が互いに彼等の仕事を助け合おうと、また彼等の作業間の繋がりが単なる事実において、同じ資本家のための仕事として存在しようと、なんら問題にはならない。しかし、もし、12人が6つのペアの形で、多くの異なる小さな工場主に雇用されたとしたら、それぞれの工場主が同じ価値を生産するか、またその結果として、一般的な剰余価値率を実現するかは、全くの偶然となろう。

  個々のケースで差異が生じるであろう。もし、一労働者がある商品の生産のために、社会的に必要な時間よりもかなりのより多くの時間を要するのであれば、彼のケースでは、必要労働時間が、平均的な社会的労働時間からかなり逸脱している。その結果として、彼の労働は、平均的労働とはみなされないし、彼の労働力は平均的な労働力ともみなされない。その労働力は、全く売れないか、または、平均的労働力の価値よりある程度低い価値でしか売れないであろう。であるから、全労働のある決められた効率の最低値が想定される。そして我々は後に、この最低値を決める方法を資本主義的生産が備えていることを見ることになろう。しかしながら、この最低値は平均からは外れる。ではあっても、他方、資本家は平均的な労働力の価値を支払わねばならない。それゆえ、6人の小工場主のうち、ある者は、平均的剰余価値率以上を搾り取り、他の者は以下となる。この不公平は、大きな集団では補われ、個々の工場主では補われない。かくして、価値の生産の法則は、個人的生産者によってのみ完全に実現される。彼が資本家として、そして大勢の労働者をまとめて雇用する場合、それらの労働は、その集団としての性質により、直ぐに、平均的社会的労働として刻印される。*2 

  本文注: 2* ロッシェル教授は、ロッシェル夫人に雇われた一人の裁縫婦が、二日間で、1日一緒に雇った二人の裁縫婦よりも多くの仕事をしたことを発見したと断言した。よく学ばれた教授は、この資本主義生産過程について、育児室や、主要な人物、資本家、が居ないという状況では、学習すべきではなかった。(訳者注: 当然のことながら、誰かさんと同じように、平均的社会的労働の何たるかには行き着かない。)

  (4) 労働のシステムに何の改変がなくても、大人数の労働者の同時の雇用は、労働過程の物質的条件に革命をもたらす。彼等が働く建物、原材料のための倉庫、同時に使われる道具や容器 または労働者個々の役割に応じて使われるそれらの物、端的に云えば、生産手段に係るところの物、は、ここでは、共同的に消費される。ここでは、これらの生産手段の交換価値は増大されない。より綿密に消費されようが、大きな利点が考えられようが、そのような生産手段の使用価値によって、それら一商品の交換価値が上昇させられることはない。だが、他方、共同で使用されるのであるから、当然以前よりは大きな規模となる。20人の織り工が20台の織機が労働する作業室は、二人の織り工を使う一親方の作業室より大きくなければなるまい。しかし、20人のための一作業場を作る労働は、二人の織り工を収容する10の作業場を作る労働よりも小さな労働コストですむ。だから、共同で使用する大きな規模に集約された生産手段の価値は、その拡大、そして増大されたそれら手段の有用な効果、に正比例して増大はしない。共同で使用する時、それらの手段は、それら自身の価値のより小さな部分を各一生産物に引き渡す。

  その一理由は、それらが付与するものの全体が、生産物のより大きな数量にばらまかれるからであり、また別の理由としては、それらの価値が、絶対的に大きなものとして、過程の稼働局面に関与することになるが、個々の孤立した生産手段の価値よりは相対的に小さいからである。このことによって、不変資本の一部分の価値は下落し、その下落の大きさに比例して、その商品の価値もまた下落する。その効果は、丁度生産手段のコストが小さくなったことと同じことである。彼等のやり方に於ける、その経済的節約は、全くのところ大人数の労働者による共同的消費によるものなのである。それ以上に、この社会的労働の必然的とも云える性格が、散在し相対的によりコスト高の生産手段をもつ隔絶された独立の労働者や小工場主からはっきりとその存在を区別する性格が、多くの労働者が互いに助け合うこともなく、単に並んで仕事をするだけでも、現われてくるのである。労働手段のある部分は、労働過程そのものが起動する以前から、このような社会的性格を獲得している。( 訳者注: 読者が頭を叩く前に、データを呼び出しておこう。例えば、木を運ぶとか、石をどけるとか、広場を設けるとか、煉瓦を積むとか)

  (5) 生産手段の使用における節約は、二つの面から考察されるべきである。その第一は、商品を安くすることである。そしてそれによって労働力の価値の低下に至る。第二は、前貸し資本に対する剰余価値率を良くすることであり、すなわち、不変資本と可変資本の価値総額に対する剰余価値率を改造することである。後者の局面については、我々が第三巻に至るまでは、取り上げて考察はしない。そこにおいて、それらの適切な諸関連とともに取り扱う対象なのである。その他の現在の問題に関連する点についても、ここでは取り上げず、後に論ずる。我々の分析の進行が、この分離を大事なテーマとして余儀なく迫っているのである。というのもこの分離は資本主義的生産の精神状態の方に見事な調和を見せるものだからである。なぜならば、この生産様式においては、労働者は、労働手段が彼自身から独立して存在しており、まるで、他人の財産のようなものであるのを見出す。節約は、それらを使う時、彼にとって見れば、独特の運動をするものであり、それは、彼には関心がない。従って、彼自身の個人的な生産力が増大されうる方法と何の関係もないからである。

  (6) 大勢の労働者が、共に並んで作業する場合、それが一つの同じ過程であるか、または繋がってはいるが 違っている過程であるかのいずれであれ、それらは共同作業する、または共同作業として労働すると呼ばれる。(本文注: 3* 「力の競演」デェステュート ド トラシィ 既出 )

  (7) 丁度、騎兵1大隊の攻撃力、または歩兵1連隊の防御力は、個々の別々に点在する騎兵や歩兵の攻撃または防御力の合計とは本質的に違うのと同様である。その様に、孤立した労働者によって用いられる機械力の総計は、新たに登場した社会的な機械力とは違う。多くの人手が同時に、一つのそして同じの、分割されていない作業に取り組むならば、ウインチを回して重量物を持ち上げ、あるいは障害物を取り除く。*4

  本文注: 4* 「そこには、いろいろな部分に分割することを認めがたい全く単純な種類の作業が多く存在する。多くの人々の両手による共同作業なくしては実施されることができない作業がある。大きな木を荷馬車に載せるという場合を取り上げることができよう。…. 端的に云えば、同じで分割しえない作業を同時に、互いに助け合って行う多くの両手がなければでき得ない。」( E.G. ウェイクフィールド 「植民地化の技能に関する一見解」ロンドン 1849年)    

  この様なケースでは、結合された労働の効果は、個々の孤立した労働によって生産されるものでも、または、大きな時間を使っての労働によってのみ生産されるものでも、または、非常に小さな小人によってなされるもののいずれでもない。共同作業によって、個人的な生産的能力の増大を獲得するだけでなく、新たな力、言うなれば、多数のそのもの集合的な力 を我々は獲得したのである。*5

  本文注: 5* 「一人ではできず、そして10人でも、1トンの重量を持ち上げるには相当の苦労を要するにちがいない。けれども、100人なら、わずか彼等のそれぞれの指1本の力でできてしまう。」( ジョン ベッターズ 「産業大学の設立の提案」ロンドン 1696年 )

  (8) 沢山の力が一つに融合されることから生じる新たな力については、別に置くとして、単なる社会的な接触は大抵の産業において、労働者各自それぞれに効率を高める動物的な精神である競争心と活気を生じさせる。であるから、12人が一緒になって働くならば、彼等の集合的労働日114時間は、孤立した12人のそれぞれの12時間よりも、また一人が12日連続して働くよりも遥かに多くを生産するであろう。*6

  本文注: 6* 「そこにはまた、」( 同じ数の男等が、10人の借地農業者の各30エーカーごとに雇われるのに代わって、一人の借地農業者の300エーカーに雇われる場合には )「農僕の人数に利点がある、普通には理解しがたいかも知れぬが、実際にそれを行っている者には自明である。何故かと云えば、4に対する1は、普通に云えば、12に対する3である。しかし、実際の作業はそうは行かない。例えば収穫時、一緒に投入する沢山の手で手早く片付けたい沢山の仕事がある場合、もし収穫で、二人の馭者、二人の積み込み、二人の投げ込み、二人の掻き手、そして他の者は、山積みまたは納屋の中に居れば、同じ数の手がそれぞれの組に分けられて、異なる農場に居る場合の倍の早さで仕事が片付くであろう。(「食糧品の現在価格と農場の大きさとの間の関連に関する研究」一借地農業者 ロンドン 1773年 )

  その理由は、人間は、アリストテレスが主張するような、政治的な存在 *7 ではなく、いずれにせよ、社会的動物であることによる。

  本文注: 7* 厳密に、アリストテレスの定義は、人は本質的に市域に住む市民となる。このことは古き古典的な社会そのままの性格を示す。丁度フランクリンの人の定義が、道具を作る動物となり、アメリカのヤンキー的性格を持つのと同じことである。

  (9) 大勢の人が、同時に同じ場所に、または同じ種類の仕事に、一緒に従事させられたとしても、依然としてその労働のそれぞれが、集合的労働の一部であっても、労働過程の際立った局面を見せるかもしれない。それらの全局面において、共同作業の結果として、彼等の労働の対象が極めて早い速度で通過する。例えば、もし12人の煉瓦工が自分達を列に並べて、煉瓦を梯子の足元から梯子の先まで運ぶ場合、各自は皆同じことをするのだが、それにも係わらず、それぞれの個別の動作は、一つの全体としての作業の各部分の接続された形となるのである。それらは特別の局面であり、煉瓦のそれぞれを通さねばならない。そして、その結果、煉瓦は、人の列にある24本の手によって、それぞれの人が煉瓦を持って個々に梯子を上がったり降りたりするよりも早く運び終わる。*8

  本文注: 8* ( 訳者注: 上記本文の原典の提示)「さらに、この様な労働の部分的な分割は、労働者が同じ仕事に従事する場合でさえも起きることがある。例えば、煉瓦工が煉瓦を手から手へ建物の高い場所へ送り渡して行く作業では、全ての者が同じ仕事を行っているが、それでも彼等の中には労働の分割のようなものが存在している。事実、ここには、彼等各々は与えられた場所を通して煉瓦を渡して行き、一緒に行うことで、彼等が個々に彼の煉瓦を個別に上の階に運ぶよりもより速やかに仕事を達成する。」( F. スカルベック「社会的豊かさの理論」パリ 1839年 )(各フランス語)

  対象の品物は、同じ距離を短時間のうちに運ばれてしまった。繰り返して云えば、労働の組み合わせは、例えば、普請の場合はいつでも生じ、同時に異なる場所で見られる。12人の煉瓦工の144時間の共同的な作業には、一人の煉瓦工が行う12日間 144時間の普請よりもより大きな進展が見られる。その理由は、一斉に働く人々の体は、手や目を、前にも後ろにも持っているからで、だから、ある程度の条件にもよるが、至るところに存在することができる。様々な労働の部分が同時に進展する。

  (10) 上の例で、我々は人々が同じことをする、または同じ種類の仕事をするという点について強調してきたが、それは何故かと云えば、普通の労働の最も単純な形が、協同作業において偉大なる役割を演ずるからである。最高度に完璧に発展した状況においてさえも重要な役割を果たすからである。もし、作業が複雑で、共に働く者の数が少ない場合であればなおのこと、様々な仕事が違った人々に配分されて、そして、結果として、同時に遂行されることになるのである。全仕事の完成のための必要時間はそれによってむしろ短縮される。*9

  本文注: 9*「込み入った数々の労働をこなすにはどうしたらいいか? 多くのことが同時になされなければならない。一人が一つの事をする時、別の人は別のことをする、そうして、彼等の全てが、一人では作り出すことができないであろう結果のために貢献する。一人が漕ぎ、他の者が舵を取り、三番目の者が網を投げたり、銛で魚を仕留める。このような漁をすれば、この協同作業なしには不可能な成功を享受する。」(デステュート ドゥ トレーシー 既出) ( フランス語 )

  (11) 多くの産業においては、決定的な期間があり、労働過程の性質からそれが決められる。その間にある明確な結果が得られねばならない。例えば、一群の羊の毛を刈り取るとか、一面の小麦を刈り取って収穫するとかの場合、その生産物の数量とか質は、ある決まった時期に始めて終わる作業に依存している。これらのケースは、丁度、にしん漁のように、取りかかるべき時期が、その過程によって、予め決められている。たった一人では自然日のなかから、例えば12時間、日それ以上の時間をかけたとしても道路を切り開くことはできないが、100人の協同作業は労働日を1,200時間にも拡大する。その仕事のために許容された時間の短縮は、大勢の労働量が、生産の場に、決定的な時間に、投入されることによって、可能となる。適切な時間内に作業を完成することは、数多くの組み合わされた労働日を同時に適用することに掛かっている。多くの有益な効果は、労働者の数に掛かっている。この人数は、しかしながら、常に、同じ量の仕事を同じ時期に実施するために必要な、個々の孤立した労働者の人数よりも少ない。*10

  本文注: 10*「決定的な急場において、それを(農業労働) をなすことが、より良い結果をもたらす。」(「現在価格の諸関連に関する研究」他) 「農業においては、時季以上に重要な要素はない。」( リービッヒ 「農業における理論と実際」1856年) (ドイツ語)

  アメリカ西部で穀物の多量が、英国の支配が以前の社会集団を破壊したインド東部の綿花の多量が毎年期を失して無駄になったのは、この種の協同作業の不在による。*11

   本文注: 11*「次なる災害は、世界において、他国よりも多くの労働を輸出する国では殆ど見出し得ないものであって、多分中国や英国は例外であるが、綿畑から綿を摘み取る充分な人手を獲得することの不可能なることである。このため、大量の綿が摘まれずに放置される。その後、地に落ちて、変色したり、部分的には腐ったものが、そこから集められる。適切な時季における、労働の欠乏から、英国が渇望する期待の収穫の大部分が、損失となることを、耕作者は現実に認めなければならないことになる。」( ベンガル フルカル 「隔月海外情報要約」1861年7月22日) ( 訳者注: 上記のインド東部の出来事の出典である。何故労働力が不足したかは、マルクスは記述しているが、出典のこの部分には出てこない。さて、訳していて、分からないことが多い。まず各国の労働の輸出状況は、皆目分からない。さらに、中国と英国の、ここでは労働が不足しない例外であり、かつ労働を輸出しているであろう記述と読める点、そしてその意味も分からない。さらに、半分腐った綿がどの程度のものなのか、あるいはそれを片付けて次期の収穫のための必要となる追加的労働のことなのか、耕作者と英国の関係等々、分からないまま訳した。まあ、出典だから特に追及する必要はないと思うが、気にはなった。)

  (12) 一方で、協同作業は、作業が広い区域で実施されることを容認する。であるから、ある種の工事には協同作業が求められる。例えば、排水工事、築堤工事、灌漑、運河、道路、鉄道がある。他方では、生産規模を拡大しながら、その活動域の相対的な縮小を可能にする。この活動域の縮小は、規模の拡大から同時に始まり、それによって、多くの無駄な出費が削減される。この事は、労働者の複合、様々な過程の集合、そして生産手段の集中によってもたらされる。*12

  本文注: 12* 耕作の進歩により、「全てが、多分それ以上に、かっては500エーカーを粗っぽく使用していた資本と労働は、今では100エーカーのより完全な耕作に集中されている。」別に云えば、「資本と雇用される労働者の量に対して、相対的に広さが縮小集中されており、生産局面は拡大されている。以前の生産局面が使用していたもの、または一独立の生産者のそれと較べればと言う事である。( R. ジョーンズ 「富の分配に関する一論」第1編 地代について ロンドン 1831年 )

  (13) 結合された労働日は、関連的には、個別の孤立した労働日の同じ合計であると云えるが、より大きい使用価値量を生産する。結果、与えられた有益な効果の生産のための 必要労働時間を小さくする。 結合された労働日は、与えられたケースにおいて、この増大された生産的な力を取得する。なぜならば、労働の機械的な力を高めるからである。または より広い範囲に活動の局面を広げるからであり、または 生産規模に対して相対的に生産域を縮小するからであり、または 決定的な時機に作業する大勢の労働者を配置するからであり、または 個人間の競争を刺激し動物的な精神を高めるからであり、または 大勢の人によって行われる同じ様な作業に、連続性と多面性の刻印を明確に与えるからであり、または 同時に、違った作業を実施するからであり、または 共通に使用することで生産手段を節約するからであり、または 個々の労働に対して平均的社会的な性格を付与する、その性格が生産の増加の原因でもあるからであり、それぞれがどのように関係していようといまいと、この結合された労働日の特別な生産的な力は、いかなる状況であっても、労働の特別の生産的な力であり、または、社会的な生産的な力なのである。この力の出所は協同作業そのものなのである。労働者がシステムとして他の労働者と協同作業をする時、彼は、彼の個人的な足かせを脱ぎ捨てる。そして、彼の人間種としての可能性を発展させる。*13

  本文注: 13* 「一歩は不確かで小さいものだが、それらを集めればあのメディア人のように大きく高くなり、時間を縮め、空間を自分のものとする。」( G.R. カルリ 「P. ブエリへの手記」 既出 テキスト 15 ) ( イタリア語 )

  (14) 一般的法則としてだが、労働者は一緒にされなければ協同作業することはできない。彼等の一つの場所への集結は、彼等の協同作業の必要条件なのである。であるから、賃金労働者は、彼等が同時に同じ資本、同じ資本家に雇用されなければ協同作業することはできない。そして、であるから、彼等の労働力が同時に彼によって買われなければ、協同作業することはできない。これらの労働力の全価値、またはこれらの労働者の一日の、または一週の、いろいろなケースがありうるが、の賃金の大きさは、生産の過程のために労働者達が集められる以前に、資本家のポケットの中に準備されていなくてはならない。300人の労働者に一度に支払う金額は、例え一日分であろうと一週分であろうと、少人数の毎週ごとの一年分よりも資本にとっては大きな支出が求められる。従って、協同作業する労働者の人数、または協同作業の規模は、先ず第一に、労働力を購入するために用いることができる個人としての資本家の資本額に依存している。別の言葉で云えば、一資本家が調達できる 労働者の数に相当する生活手段の大きさに依存している。    

  (15) そして、可変資本と同様に、不変資本についても同じ事である。例えば、原材料への支出は、30人の資本家がそれぞれ10人を雇う場合と較べて、一人の資本家が300人を雇うならば、それは30倍の支出となる。この労働手段の量と価値は、通常は、実際のところ、労働者の数と同じ割合では増大しないが、それでもかなりの増大となる。従って、個々の資本家の手中にある大きな生産手段の集中は、賃銀労働者の協同作業の物質的な条件なのである。そして、協同作業の広がり、または生産の規模は、この集中の大きさに依存している。

  (16) 我々は前章で、ある程度の労働者数を同時に雇用するためには、それなりの最小量の資本が必要であることを見て来た。そしてその結果として、ある程度の量の剰余価値が産み出され、それが手作業労働をする一雇われ同様の彼自身を解放し、小さな工場主から資本家へと変換することになり、かくて、正式なる資本主義的生産を確立するのを見て来た。さて、我々は、多くの孤立化された、独立化された過程を、一つの結合された社会的過程に変換するためには、それなりの最小量の資本が必要条件になると分かった。

  (17) また、我々は最初に、労働の資本への従属が、労働者が自分自身のために働くのに代わって、資本家のために、それゆえ、資本家の下で働くという事実の、唯一の帰結的な結果であることを見た。大勢の賃金労働者達の協同作業によって、資本の支配は、労働過程そのものを進める上での必要事項へと発展する。さらに、生産の実際の必須事項へと発展する。まるでそれは、資本家が生産領域を差配すべきであるということが、戦場で命令を下さねばならぬ将軍のそれのように、絶対に欠かす事ができないものへとなる。(訳者注: 資本家の下で働くという事実の、「唯一の帰結的な結果」 と訳した部分の英文は、極めて簡単な only a formal result とある単語群なのである。何故ここで悩むかは、単語のformal にある。辞書では、正式な とか、形式上のとか伝統的なとかの訳語が見られる。向坂訳は、形式的な結果 としている。単語には多くの裏表の意味が含まれることが多い。正式と形式上とでは意味はかなりの差がある。訳者は、ここでは、形式的とは訳しにくい。形式ならば本質をいつでも保持し、形式は脱ぎ捨てることが容易なものと思う。そうは行かない。しかし、正式かと云えば、そのような仮装上の正統性ではあっても、容易に認める場面でもない。そこで、帰結的なと置いて、歴史的経過的な意味での当然の成り行きとしての結果と表すことにした。難しくかつ面白いところである。)

  (18) 全ての、大きな規模の結合された労働は、多かれ少なかれ、個々の活動の作業の調和を確保するために、そして、個別の組織器官の活動とは違う、結合された組織としてそれぞれが持つ普遍的な機能を発揮するために、指揮機能を要求する。一人のバイオリン奏者は、彼自身の指揮者ではあるが、オーケストラは明確な一人の指揮者を必要とする。労働が資本の下に、協同作業となった瞬間から、作業の指示、監督、調整、が資本の一つの機能となる。資本の機能が確立するやいなや、それが特別の性格を獲得する。

  (19) 資本主義的生産の究極的な狙いは、その直接的な動機は、最大限のでき得る限りの剰余価値の量を引き出すことであり、*14 そして、その結果として、最大限のでき得る限りの労働力を搾取することである。

 本文注: 14* 「利益…. は、取引の唯一の目的である。」( J. バンダーリント 既出 )

 協同作業する労働者の人数が増加するに応じて、資本の支配に対する彼等の抵抗もまた、増大する。そのため、この抵抗に打ち勝つことが資本にとっての必要事となる。資本家によって実施されるこの制御は、単に特別なる機能であるばかりでなく、社会的労働過程の性質から生じる、そしてその過程に特異なものであるばかりでなく、それは同時に、社会的労働過程の搾取機能となる。そして、その結果として、搾取者と、彼が搾取する 生きて働く原材料である者 との間に生じる 避けることができない敵対の根源となる。(訳者注: 色を変えた部分の英文は、living and labouring raw material)

  (20) 繰り返すが、生産手段の規模が増加するに比例して、今や、労働者の所有権は消え、資本家の所有物となる。それらの手段の適切な利用に関する効果的な制御の必要性も増大する。*15

 本文注: 15* あの俗物ペリシテ新聞 スペクテイターは、次のように述べた。「マンチェスターの針金製造会社」において、資本家と労働者の間にある種の協同経営を導入した、すると、「その最初の結果は、無駄遣いが急に減ったことであった。人々は、他の工場主らの工場の浪費以上に、彼等自身の財産を無駄にすべき理由のないことに気がついた。多分、浪費は不良債権に次ぐ製造における損失の最大の源泉であると。」この同じ新聞は、ロッチダールの協同作業実験の主要なる欠陥を見出して、次のように述べている。「彼等は、労働者による組合が、店、工場、そして産業の全ての状態を上手に管理することができることを示した。そして、彼等は直ちに人々の健康状態を改善した。しかし、そこに、彼等は、ご主人様の明瞭なる立場の余地を、残していなかった。」 おお、なんと険悪なることぞ! (フランス語)

 繰り返すが、賃金労働者の協同作業は、全くのところ、彼等を雇った資本家によってもたらされたものである。彼等が一つの生産的な姿に結合しているのは、彼等の個々の各機能間の繋がりの確立は、彼等にとっては、外的かつ対外的な事態であって、自分達自身の行動ではない。そうではなくて、彼等を一緒にして保持しているのは、資本の行動なのである。従って、彼等の様々な労働の間に存在する連結は、観念として、資本家の予め想定した計画の姿として彼等に写る。そして、事実上、同じ資本家の権威の実態となり、彼等の活動を彼の目的に服従させる他人の強力なる意志の実態となる。かくて、資本家の制御に本質的な二重性、生産過程そのもののが二重の性質を持つ理由から、すなわち、一つは使用価値の社会的生産過程、もう一つは剰余価値の創造過程であるからこそ、この後者をして、この制御を絶対的専制たらしめる。

 訳者注: この部分の向坂訳を示しておきたい。「指揮さるべき生産過程そのものの二重性のために、内容から見れば二重的であるとしても、形式から見れば専制的である。」把握不可能な難解訳となっている。資本の専制的制御機能の出自をしっかりと把握できなければ、剰余価値を社会的価値に転換すれば資本家の専制も消え去り、注にあるような労働者による、専制の余地のない管理も成立する論理を把握できないではないか。挫折なくこの文面を通過していたら、英訳資本論の和訳など始めなかったであろう。改めて感謝せざるをえない。和訳作業が、どんなに資本論を読むことになっているか痛感する。本当に有難い。

 協同作業の規模の発展に応じて、この専制もまた自身特有な形を取る。その最初といえば、彼の資本が資本主義的生産のための最小限に達するやいなや、資本家は実際の労働から一息ついて離れ、そうしてすぐに今度は、個々の労働者または労働者のグループを、直接的にまた常時監督する仕事を、特別な種類の賃金労働者に押しつける。資本家の指揮下にある労働者の産業軍隊は、まるで実際の軍隊のように、士官(管理者)、そして軍曹(手配役、監視役) を求める。彼等は、仕事がなされる間、資本家の名において命令する。指揮監督の仕事が、彼等の確立された、そして排他的な機能となる。単独に孤立する農場主や手工職人親方の生産様式と奴隷労働による生産とを比較する場合、前者の監督の仕事を、政治経済学者は、生産の雑費 の中に計上する。*16 (フランス語)

 本文注: *16 ケアンズ教授は、北アメリカの南部諸州における奴隷による生産では、奴隷監督の仕事が主要な特徴であると述べた後で、こう続けた。「農地所有者(北の) は、彼の骨折りによる全ての生産物を占有するのであるから、努力させるためのものとして、その他にはなんの刺激策も不要である。監督労働は、ここでは全くなくて当然のものである。( ケアンズ 既出)

 しかし、資本主義的生産様式を考えるならば、これとは違って、彼( 訳者注: 政治経済学者の彼のこと) はこの制御の労働を、労働過程の協同作業という性格によって必要とされたそれと、その過程の資本主義的性格によって必要とされ、そしてまた、資本家と労働者の間にある利益の敵対的な性格から必要となる、全く異なる制御の労働とを、同一視するのである。*17

 本文注: *17 ジェームス ステュアート卿、作者であり、様々な生産様式の社会的な性格の識別について、完璧で顕著なる洞察力をもって知られる彼は、次のように述べた。「何故、製造業において、大きな業者が、個人的な製造業を崩壊させるのか、それはまさに、前者が、奴隷労働の単純さに近寄るからではないか?」(「政治経済学の原理」ロンドン 1767年 )

 彼が産業の指揮官であるから、彼が資本家なのではなく、全く逆に、彼が資本家であるという理由から、彼が産業の指揮官なのである。産業の統率力は、資本の一つの属性なのである。丁度、封建時代には、将軍とか裁判官の機能が、土地所有の属性であったようにである。*18    

 本文注: *18 オーギュスト コンテとその学派は、これに従って、資本のご主人の場合について行ったのと同じやり方で、封建領主が永遠に必要であると証明できるやもしれない。( 訳者の小余談: こう言う言い方があったとは、しっかり覚えておいて、応用させてもらうことにしよう。)

  (21) 労働者は、資本家と売りの交渉を完了するまでは、彼の労働力の所有者である。そして、彼が持っているもの、すなわち、彼個人の、孤立した労働力 以上のものを売る事はできない。この状態は、一人の労働力を買う代わりに、資本家が100人のそれを買うとしてもそのことによって変更されるものではない。だから、一人とに代わって、100人の繋がりなしの人と個別の契約を結ぶ。彼は、勝手に100人を働かしてもよい、何も彼等を協同させずともよい。彼は彼等に、100人の独立した労働力の価値を支払う。しかし、100人の結合された労働力には支払わない。互いには独立しているのであって、この労働者達は孤立状態にある。彼等は資本家との関係は持ったが、互いには何の関係にも入らない。この協同作業はただ、労働過程において始まるが、彼等自身に属するものではなくなる。過程に入れば、彼等は資本と一体となる。協同作業者として、労働する組織体の構成員として、彼等は、まさに、資本の特別の存在様式となる。であるから、協同作業として働く時、労働者によって発展させられた生産力は、資本の生産力となる。この力は、労働者がある与えられた条件の下に置かれたならばいつでも、無料で発展させられる。そして彼等をそのような条件下に置いたのは資本である。なぜならば、この力に対して資本は何も支払ってはいないからであり、一方で、労働者自身では、資本に所属する以前にはこの力を発展させてはいないからである。その力は、あたかも資本に内在する生産力という大自然 ( ) によって資本に付与された力のごとく現われる。(訳者挿入)

  (22) この単純な協同作業の巨大な効果は、古代アジアの、エジプトの、エトルリア、その他の巨大建造物に見ることができる。

  (23) 「過去の時代、これらの東方諸国では、彼等の土木工事や軍事体制の支出を支払った後に、壮大なる建築等または役に立つ建築等に用いることができる余剰の所有に彼等自身が囲まれていることを発見した。そして、これらの建設において、非農業人口の殆どの手と腕を指揮して、驚くべき建造物を作り出した。それらは今でも彼等の力を顕示している。豊かなるナイル渓谷…. は、非農業人口の群衆のための食料を産み出した。そして、この食料は、皇帝や聖職者達の所有物であるが、国中を満たした巨大な建造物を立ち上げる手段をもたらした。巨大な像の移動や大量のものの運搬が世界の不思議を作ったのである。人間の労働、ほとんどそれだけなのであるが、その労働が惜しげもなく使われた…. 労働者の数と彼等の努力の集中、それで十分であった。我々は、巨大な珊瑚礁が大洋の深海から隆起して島となり、堅固な大陸となるのを知っている。しかしながら、それぞれの個々の寄生物は取るに足りないほど小さく、弱く、そしてどうでもいいようなものなのにである。アジアの君主制下の非農業労働者は何も持たず、ただ彼等の個々の肉体的な努力をもって仕事をするだけで、だが、彼等の数が彼等の力であり、そのこれらの集合のまとまった力が、宮殿を立ち上げ、寺院、ピラミッド、巨大像の一群を立ち上げたのである。これらのものは遺跡となって、我々を驚嘆させ、いかにして作り出したのか、なぜなのかと我々を困惑させる。かれらを養った剰余が一人または二三人の手に閉じ込められたからであり、それがこのような企てを可能にしたからである。*19 ( 本文注: 19* R. ジョーンズ 「講義テキスト」他、古代アッシリア、エジプト、他の ロンドンにある収集品 そして、他のヨーロッパ資本のそれは、我々の目には、協同作業の運用様式の証拠に見える。)

 (24) このアジア王やエジプト王の力、エトルリアの神権政治家、他の力は、近代においては、資本家に移管された。彼が一人の孤立した資本家であれ、または、共同株式の仲間であれ、一つの資本家集団なのである。

 (25) 人類発展の初期においてこのような協同作業は、狩猟生活を行っていた人々や *20

 本文注: *20 ランゲは、多分正しいであろう。彼が、「市民法の各理論」で、狩猟が最初の協同作業の形式であり、人間狩り(戦争) が、最も初期の狩猟形式の一つであろう、と述べたが、その通りであろう。(フランス語)

  または、いわゆるインド的農業共同体に見てきた。これらの協同作業は、一方で、生産手段の共同的所有に基づいており、他方では、事実上、これらのケースでは、各個人は彼の種族または共同体のへその緒から彼自身を解き放すようなものは、各蜜蜂が自分を巣との関係から自由でないのと同様に何も持ってはいない。このような協同作業は、ここに示した二つの特質から見て、資本主義的な協同作業とは区別される。古代や、中世や、近代植民地で時々起きる大規模な協同作業の活用は、統治と隷属の関係、主に奴隷制に基づく。資本主義的な形式では、これと違って、最初から最後まで、自由な賃金労働者、彼の労働力を資本家に売る者、を前提としている。従って、歴史的にこの形式は、小作農業や、独立した手工業者、それがギルドであろうとなかろうと、 それらに敵対しながら発展させられたものである。*21

  本文注: *21 小規模な小作農業や、独立した手工業者の業、それらはいずれも、封建的生産様式の基盤を形成しており、その様なシステムが溶解した後では、資本主義的様式そっくりで続けられたが、それでも古典的な共同体の経済的基礎を形成し、彼等の最盛期を過ごし得た。ただ、共同的土地所有の初期的形態が消失した後、奴隷制が生産を本気で鷲掴みするまでの時期においてだが。

  この点から見れば、資本主義的協同作業は、協同作業の特有な歴史的形式として自身を示したのではなく、協同作業そのものが、歴史的に奇妙なる形式、つまり、特別に際だった、資本主義的生産過程の奇妙な形式となった。

 (26) 協同作業によって発展させられた労働の社会的生産力が、あたかも資本の生産力のように表れるように、協同作業それ自体は、孤立した独立の労働者達や、小人数の雇われ労働者達によってですら行われている生産過程とは明確に違いを見せて、資本主義的生産過程の特殊な形式として表れる。資本に従属させられることによって、現実の労働過程が経験させられる最初の変化である。この変化は、自生的にやってくる。一つの同じ過程における多人数の賃金労働者の同時的雇用が、この変化の必要条件である。また、資本主義的生産の開始地点の形式でもある。この地点は、資本自身の誕生地点とも一致する。であるから、もし一方で、資本主義的生産様式が自身を歴史的なものとして我々に、労働過程の社会的過程への転換のための必要条件であるとして示すならば、他方、それは、この労働過程の社会的形式が自身を、労働の生産性を高めることによって、より利益を上げようと、労働を搾取するために資本が採用する方法として示すことになろう。




  訳者余談 2010/08/05、チリの銅鉱山で、落盤、坑道が塞がり、鉱山労働者33名が閉じ込められた。 70日後2010/10/15に、無事全員救出された。この時の鉱山労働者達の協同作業は見事なものであった。この鉱山は、利益が出ないとして、しばらく閉山されていたが、中国の銅需要が増大して、銅価格が上昇したため採算の見通しが立ち、再開された。安全基準違反がチリ当局から指摘され、操業中止処分が何回か繰り返されたという。労働者他全300人という小鉱山である。10%の労働者が地下700mに隔絶された。まずは地下との連絡を確保するために、小口径の試験用孔を避難所に向けて掘削し、貫通させた。しばらくしてこれを引き上げると、ドリルの隙間に紙が挟まっており、全員無事との知らせが書かれていた。地下も地上も状況が分かり、救出作戦が開始された。世界中が注目し、様々な協同作業が展開された。この協同作業は、鉱山主のいつもの協同作業とは本質的に異なるものであった。資本は、この協同作業からは、いかなる労働の搾取もできなかった。そのための資本投下もできなかった。チリ大統領が現地に入り、機材等々を供給し、まるで国営鉱山のようになったが、国民の税金による労働の搾取の余地も無かった。地上の労働者達の協同作業も目覚ましいものがあったが、地下労働者達の様々な提案もまた、見事な結果につながった。 本章は、協同作業の人間的な本質と同時に、資本主義的生産における協同作業の特殊性を述べた所であるが、まさに、ここには前者の協同作業しかなく、後者の出番がなかった。地下生活等々にリーダーシップを発揮したウルスアさんが最後に救出され、また救出を支援した労働者達も地上に戻り、救出孔に蓋が閉められた。彼は、大統領と抱き合って喜んだ後に、「このような事故が二度と起こらないようにして貰いたい。」と言い、大統領は、「労働者の扱い方を先進国並みにする。」と云った。先進国が自国の労働者達をどのように処遇しているかを知っている我々にとっては、奇妙な話しであるが、チリの実状は、そう言わねばならない状況にあったということになる。この小さなサンホセ銅鉱山が、続けられるほどの、高銅価格がいつまで続くかは分からないが、中国の景気とその生産物を買う世界の需要状況の変化も予断を許さないものがあるから、長くもないだろう。さて、彼等が、資本の指揮する協同作業に復帰することになった時、自分達の人間的な協同作業を希求する、幾分かの気持ちも生じることであろう。


  (27) 我々がここまで見て来たような初期的な形式においては、協同作業は、大規模な生産のすべてに必ず付随するものではあるが、それ自身としては、資本主義的生産様式の発展における特別の時代的に明確化された性格を示すものではない。それがそのように表れたのは、せいぜい、そして大まかに云えば、手工業的に始まった製造業の最初の頃である。*22

 本文注: *22 「同じ仕事に関して発揮される、結合された、熟練の技、精励さ、そして大勢による競争が、その進展への道ではなかったと云うのか? そして、英国の毛織物製造業をこのように偉大なる完成度に至らしめることができたのには、他の方法があったというのか? ( バークレー 「質問者」ロンドン 1751年 )

  そして、そのような種類の、大規模農業も、製造業の時代に呼応して、小作人による農業からははっきりと区別されるようになった。主に、多人数の労働者の同時雇用によってであり、そして、彼等の使用に供するための、大量の生産手段が集中化されたことによる。単純な協同作業は、常に、資本が大規模に運用するそれらの生産部門において支配的なものであるが、分業や機械の利用は、まだ副次的な役割に過ぎない。

 (28) 協同作業が、いかに、資本主義的生産様式の基礎的形式を構成するものであるとしても、それにもかかわらず、協同作業の初期的形式は、資本主義的生産の特有の形式として、さらにそのより発展した生産様式の形式においても同様に、存在し続ける。( 訳者注: the more developed を、資本主義的生産様式におけるより発展した段階の意味なのか、資本主義的生産様式を否定的に超えてさらに発展した段階の意味なのか、悩むが、ここは、後者であるとして訳した。)

  訳者注: (28 )の向坂訳も掲げておく。「協業の単純な態容そのものは、そのさらに発展した諸形態とならんで、特別の形態をなすにしても、協業が、つねに資本主義的生産様式の基本形態であることに変わりはない。」またしても難解訳、把握回避訳、混乱製造訳である。なぜこうなるのか。ドイツ語の難しさもあるだろうが、ここでは、初期的協同作業も、さらにここに登場した特異な形態も、それらの歴史的内容を見落としているからに他ならない。
  





[第十三章 終り]