(1) 前貸し資本 C によって、生産過程において産み出された剰余価値が、別の言葉で云えば、資本 C の価値の自己拡大が、まずは最初に余剰として、生産物の価値の量がそれらの構成要素の価値を凌ぐものとして、我々の検討対象として現われる。
(2) 資本C は、二つの部分から成っており、一つは、生産手段に投下された貨幣総計 c 、もう一つは、労働力に支出された貨幣総計 v である。cは、不変資本となっている部分を表す、また、vは、可変資本となっている部分を表す。であるから、まずは、C = c + v と表す。仮に、前貸し資本が、500英ポンドであるとしよう。そして、その内訳が、500英ポンド= 不変分410英ポンド+ 可変分 90英ポンド(£500 = £410 const. + £90 var.)であるとしよう。そして、生産過程が終了した時、我々は、商品を手にしているであろう。その商品の価値 =(c+v)+sであり、ここの s は、剰余価値である。または、前に我々が記した数字で書けば、この商品の価値は、( 不変分410ポンド+可変分90ポンド ) + 余剰分90ポンド となるであろう。最初の資本が、今は、C からC' へと、500英ポンドから、590英ポンドへと変化したのである。その違いは、s 、または、剰余価値 90ポンドである。生産物の構成要素の価値は、前貸し資本の価値に等しいのであるから、生産物の構成要素の価値を越えた生産物の価値の超過分は、前貸し資本の拡大分、または、生産された剰余価値である 云々は、単なる同語反復にすぎない。
(3) とはいえ、この同語反復について、もう少し、詳しく調べてみよう。対比させられている二つのものは、生産物の価値と、生産過程で消費された その構成要素の価値である。これまで、我々は、労働手段をなす不変資本部分が、どのようにして、その価値の僅かな分数部分を生産に移管するか見て来た。他方の残余の価値は、それらの道具に存在し続ける。この残余部分は、価値の形成にはなんら寄与しない。我々は、現時点では、この部分については、考慮外にしておいてもいいであろう。この部分を計算に入れたとしても、何の違いも生じない。例えば、前の式、c = 410英ポンドを取り上げてみよう。この総計が、原料の価値312英ポンドと、補助材料の価値44英ポンドと、そして過程における機械の摩損分の価値54英ポンドからなっていると考えてみよう。また、使用する機械の全価値が1,054英ポンドであると考えてみよう。そして、この機械の全価値から、計54英ポンドの分のみが生産物を作り出すために前貸しされ、それが、過程において、機械が失った摩損分であると分かる。この部分が、生産物と一体になった部分の全てである。ところで、もし、我々が、同様、機械全価値の残余分に、気づくなら、それらは依然として、機械のうちに存在しつづけており、生産物に移管されるものとして、前貸しされた資本の一部であることも分かるはずである。そして、そのように、我々の計算の両側にそのことを表すならば、我々は、一方に、1,500英ポンドを、そして他方に、1,590英ポンドを置かなければならぬ。これらの二つの計の差、または剰余価値は、依然として、90英ポンドということになる。従って、この本全編を通して、内容に矛盾がない限り、我々は常に、生産手段の価値は、その過程で実際に消費された価値を意味し、その価値のみを意味するものとする。
(4) その様な意味を表すものとして、我々は、元の公式 C = c + v に戻ってみよう。我々が見て来たように、この公式は、つぎのように変形される。C' = (c + v) + s 、つまり、C が C' になる。我々は、不変資本の価値は生産物に移管されて、単に生産物に再現することを知っている。新たな、実際に過程において創造された価値、生産された価値、価値生産物は、従って、生産物の価値と同じものではない。それは、最初に表れた、(c + v) + s、または、不変資本410英ポンド+ 可変資本90英ポンド+ 剰余価値90英ポンドのようなものではなく、v + s または、可変資本90ポンド+ 剰余価値90ポンドなのである。590英ポンドではなく、180英ポンドなのである。もし仮に、c = 0 または他の言葉で云えば、もし仮に、ある工業の一部門で、資本家が、生産手段、それが原料であれ、補助材料であれ、または労働手段であれ、以前の労働によって作られたものを用いることなく、ただ、労働力と、自然から供給される材料のみを用いて生産することができるならば、この場合、生産物に移管する不変資本はないであろう。この場合の生産物の価値要素は、すなわち、我々の例であった410英ポンドは削除され、計180英ポンドが、新たな価値として創造され、または、生産された価値である。この中には、剰余価値の90英ポンドが含まれており、また、不変資本 c をいかに巨大なるものにしようと、同じ価値に留まる。つまり、我々にとっては、C = (0 + v) = v または、C'、拡大された資本= v + s であるのだから、従って、前述のとおりC'−C = sでなければならない。一方、もし、if s = 0 または別の言葉で云えば、もし、可変資本の形式で前貸しされた労働力が、その等価しか生産しないとしたら、我々にとっては、C = c + v または、C'、生産物の価値−(c + v) = 0 、または、C = C' でなければならない。前貸し資本は、この場合、その価値を拡大しなかったのである。
(5) 考察してきたことを踏まえれば、我々は、剰余価値が、純粋に、労働力に変換された資本の一部である可変資本v の価値変化の結果であることを知っている。その結果、v + s = v + v 、または、v + vの増加分 となる。であるから、いろいろと云ったとしても、ただ、「v のみが変化する。」というのが事実なのである。だが、変化の実態は、資本の可変部分の増加の結果として、同時に前貸しされた資本総計の増加ともなることから、その実態の明確さが失われる。最初は500英ポンドであったものが、590英ポンドになった。それゆえに、我々の考察を正確な結果に導くために、我々は、生産物の中の、不変資本のみが表れる部分を度外視して見なければならない。つまり、不変資本を0と、または、c = 0 としなければならない。このことは、単に、数学的公式の応用であって、我々が、不変分と可変分の大きさを、加算と減算の記号のみによって、相互に関連させられている関係として見て行く場合は、いつでもこのような方法が使われる。
早くも訳者余談となるが、c ,v , s なる要素と、その加算結果を示すC , C' 、それにC'−C = と云った減算式が登場する場面。その核心は、「v のみが変化する。」という事実の認識に係わるところである。従って、等式上は、c = 0 であろうと、c = いかなる数字であろうと、ここに述べられた単純な数式では、左辺 = 右辺 の等式は成り立つということになる。そんなことは小学生でも分かるのに、なんで余談なんだと一言出そうな気がするので、話を本題の方に転じよう。次の一文を読んで貰う。
500であったのが590になる。したがって、この過程の純粋な分析は、生産物価値のうち不変資本価値のみが再現する部分から、全く抽象されること、したがって不変資本cをゼロとすることを必要とする。かくして、可変量と不変量とをもって運算が行われ、不変量が加法または減法によってのみ、可変量と結合されているばあいの、数学の一法則を適用することを必要とするのである。
私の訳した上記部分の、向坂訳である。極めて容易な部分をこのように難解に訳せばどうなるか。労働力に投じた可変資本部分のみが剰余価値を産むという事実を解消・霧散させるであろう。誰を利するかは云うまでもない。難解無用と云いたい。
改めて云うが、私の翻訳も、向坂訳がなければ、到底成就し得ないのであるから、大いに感謝しつつ、一方で、この様な部分を取り上げさせて貰っているのである。実は、この部分の翻訳は難しいと思う。向坂訳があるからこそ、その難解性があるからこそ、多少なりとも我が訳が、よりやさしい訳が次第に読み取れるようになるのである。変な感謝のしかたではあると思うが、本当は向坂訳に感謝しているのである。
云うまでもないことを追加しておくが、乗算や除算で数式が成り立っている場合に、その変数値を0としたら、どうなるかは、小学生でも分かるであろう。そう、数学的に+−の世界での公式に限定した場合の話として、c = 0 であり、we know that surplus-value is purely the result of a variation in the value of v, of that portion of the capital which is transformed into labour-power; とその内容を強調しているところを、把握していただきたい。余談余計とは思うが。
(6) もう少し難しい点が、初めの可変資本の形式ゆえに、提起される。我々の例によれば、C' = 不変資本410英ポンド+ 可変資本90英ポンド+ 剰余価値90英ポンドである。しかし前者の90英ポンドは、与えられたものであり、従って、不変量である。にもかかわらず、それは、不合理にも、可変量として扱われるものとして表れている。しかし、事実は、この可変資本90英ポンドという文字は、ここでは、過程に入るこの価値を示す単なる記号なのである。労働力の買いに投入される資本部分は、物質化された労働力の明確な量、購入された労働力の価値のように不変価値である。しかし、生産過程において、90英ポンドは、活動する生きた労働力となり、死んだ労働は、生きた労働によって、停止しているものは、流動するものによって、不変のものは、可変のものによって置き換えられる。その結果はvの再生産+ vの増加分となる。それゆえ、資本主義的生産の視点から見るならば、全ての過程が、最初に投入された不変価値の、労働力に変換されたところのものの、自然発生的な変化として目に入る。その過程とそれらの結果が、共に、この価値に寄与したものとして目に入る。従って、もし、「可変資本90英ポンド」というこのような表現と、または、「自己拡大するそのような価値」という表現が矛盾したものとして見えるならば、それはただ、それらが、資本主義的生産に内在する矛盾を取りだして見せて呉れたからに過ぎない。
(7) 最初は、不変資本を0とみなすことは、奇異な考え方であると思うであろう。だが、日常的に我々はそのようにしている。もし、例として、我々が、綿工業からの、英国の利益の大きさを計算したいと思えば、まずは第一に、我々は、アメリカ合衆国、インド、エジプトそして他の国々の綿に支払った総額を控除する。他の言葉で云えば、生産物の価値に単に再現される資本の価値が、0と置かれる。
(8) 勿論、剰余価値率は、剰余価値が直接的に発条する資本のその部分、その価値の変化を表す資本のその部分を分母とするものであるばかりではなく、また、前貸し資本総額を分母とするものであることも、経済的見地からは大変重要なことである。であるから、我々は、第三巻で、この率について徹底的に取り扱うつもりである。労働力に置き換えられることによって、ある部分の資本が、その価値を拡大することが可能となるためには、もう一つの別の資本部分が、生産手段へと置き換えられていることが必要である。可変資本がその機能を実行できるかどうかは、不変資本が、適切な比率で、各労働過程の特有なる技術的条件によって与えられている比率で、前貸しされていなければならない。とはいえ、化学的過程に必要なレトルトや容器が整ったからと云って、化学者に、彼の分析結果を、これらの器材の整列のみから見出すように迫ることなどありえない話である。(ここの、化学的過程の器材と化学者の関係を記述している部分は、英文を読んでその内容が分かっても、日本語に訳すとなると難しい所である。訳者余談的挿入で申し訳ないが、向坂訳と合わせて示して置くのがいいと思った。 The circumstance, however, that retorts and other vessels, are necessary to a chemical process, does not compel the chemist to notice them in the result of his analysis. 「しかし、化学的過程に、蒸留器その他の容器を使用するという事情は、分析に際して蒸留器そのものから抽象するということを妨げるものではない。」 続く本文記述を読んで行けば、私の訳が適切であると判断して戴けるであろう。)もし、我々が、生産手段を、見るならば、価値創造との関係において見るならば、そして価値量の変化との関係において見るならば、そしてその他の関係とは切り離して見るならば、それらは、単純に、素材として表れてくる。それは、労働力が、価値を創造する力が、労働力自体を一体化する対象としての素材として表れてくる。自然も、この素材も、なんら重要ではない。ただ一つ重要なのは、生産過程において、拡大された労働を吸収するに充分な素材の供給が継続すると云うことである。一旦与えられたこのような供給で、素材の価値は上昇または下落するであろう、または、大地や海のように、それ自体になんら価値がなくなるかも知れない。だが、この事は、価値の創造 または 価値の量における変化に関してなんら影響を与えるものではない。
本文注: ルクレティウスが述べたことは、自明である。「無は無の創造者になることができる。」( ラテン語 ) 無からは、何も作り出せない。価値の創造は、労働力の労働への変換である。労働力自体は、慈しみ深き育成意図 ( by means of nourishing matter. 訳者として訳出はしたものの、意味不明を恐れて、原文をコピペ、「自然」というのが最適と思うが、by Natureではないので敢えて捻出してみた。) によって、人間という生物に移管されたエネルギーである。
(9) だから、まず最初は、我々は、不変資本を0と置く。前貸し資本は、その結果、c + v から vへと表記が短くなる。生産物の価値( c + v) + s に代わって、ここでは、我々は、生産された価値を、(v + s) と表す。与えられた新たに生産された価値= 180英ポンド、この額は、結果として、過程において支出された全労働を表している。そして、ここから、可変資本の90英ポンドを引けば、残りの90英ポンドが手に残り、それが剰余価値の量である。この90英ポンドの額、またはsは、生産された剰余価値の絶対量を表す。生産された相対量、または、可変資本に対する増加率、これが、可変資本に対する剰余価値の比率として得られること、または、s/v. で表されることは、云うまでもない。我々の例では、この比率は 90/90 であり、100% の増加を示す。可変資本の価値の相対的増加、または、剰余価値の相対的な大きさを、我々は、「剰余価値率」と云う。
本文注: 英国人は、同じ意味で、利益率とか利子率という言葉を使う。我々は、剰余価値の法則を知っているかぎり、この利益率はなんの神秘でもない。これらについては、第三巻で示すことになろう。だが、もし、この逆の方法を取れば、利益率から剰余価値率を考えるとなれば、我々は、その一つも、また、もう一つの方も理解することはできないであろう。
(10) 我々が見て来たように、労働者は、労働過程の一つの時間部分では、彼の労働力の価値のみを生産する。それは、彼の生存のための価値である。ところで、彼の仕事は、労働の社会的区分に基づいており、諸関連の一部をなしているのであるから、彼は、彼自身が消費する現実に必要なものを、直接生産することはできない。それに替わって、彼は特定の商品を生産する。例えば、撚糸である。そして、その価値が、彼が必要とするものの価値と等しい。または、彼が必要とするものを買うことができる貨幣と等しいものとなる。この目的のために用いられる彼の労働日の該当部分は、彼が日々求める平均的な必要品の価値に比例して、または、同じ量となるが、それらを生産するに要する平均的労働時間に比例して、大きくもなり小さくもなる。もし、それらの必要品の価値が、平均的に、6労働時間の支出として表されるならば、その価値を生産するために、作業者は、平均6時間の作業をしなければならない。もし、資本家のために作業するのに代わって、彼自身のために独立して働くとしても、他の状況が同じであれば、依然として、同じ時間数の労働は免れない。彼の労働力の価値を生産するために、そして彼自身の保全または彼自身の再生産の継続のために、その労働量からは免れない。しかし、我々が見て来たように、彼の労働力の価値3シリングであるが、それを生産する 彼の労働日のその部分で、彼は、資本家によってあらかじめ前貸しされた彼の労働力の価値の等価分のみを生産する。
本文注: 予め前貸しされた とある所に、エンゲルスが注を付けている。ドイツ語版第三版に追記された注 - 著者は、ここで、経済用語を通常の使用法を用いて訴えている。第6章 文節(17 )が思い起こされるであろう。そこには、真実は、労働者が資本家に前貸しするのであって、資本家が労働者に、ではないのである。と書かれている。(訳者挿入 この両者の関係を単純明快に理解するためには、さしあたり暫定的にこのように仮定するのが分かりやすいだろう。と。ここでは、さらに、労働日の該当部分以外をも、想定されているのである。)
新たに創造された価値は、ただ、前貸しされた可変資本を置き換えたものに過ぎない。このことは、次の事実による。すなわち、3シリングの新たな価値の生産は、単なる再生産の外観を取る。であるから、作業日のその部分、この再生産が行われる時間を、私は、「必要」労働時間と云う。そして、その時間に支出される労働を、私は、「必要」労働と云う。(いずれもイタリック ) 必要とは、労働者に関して云えば、彼の労働の特定の社会的形式から独立しているからであり、必要とは、資本に関して、そして、資本家の世界に関して云えば、労働者の継続的な存在に、彼等自身の存在が依拠しているからである。
本文注: 必要労働時間という言葉を、この著作においては、今まで、ある商品の生産のために、ある社会的条件において、必要な時間を意味するものとして用いてきた。だが、これ以降、特定の商品 労働力 の生産のために必要な時間を意味するものとしてもまた、用いる。一つの同じ言葉を違った意味に用いるのは不便であるが、これらを全て排除できる科学もない。例えば、高等数学で、初等数学の用語を用いるのと比較できよう。(訳者が思いつくのは、足し算である。高等数学では引き算も負数の足し算として現われる。)
(11) 労働過程の第二段階においては、彼の労働はもはや必要労働ではない。かの作業者は働き、まさに、労働力を支出する。だが、彼の労働は、もはや必要労働ではない。彼は、彼自身のためには何の価値も創造しない。彼は余剰価値を、無から創造するというとてつもない魅力を持つ余剰価値を、資本家のために創造する。労働日のこの部分を、私は余剰労働時間と云う。また、この時間中に支出された労働を、余剰労働と云う。余剰価値を正しく理解するために、以下のことは、何にも増して轡のように重要である。すなわち、剰余価値とは、剰余労働時間が凝結したものであり、他でもなく余剰労働が物体化したものである。価値の適切な把握のために云うならば、それは、多くの労働時間の単なる凝結物であり、他でもなく労働が物体化したものなのである。社会の様々な経済的形式における本質的な差異は、例えば奴隷労働を基盤とする社会と、賃金労働を基盤とする社会との差異は、ただ、いずれのケースにおいても、実際上の生産者、労働者から取り上げる余剰労働の、その様式の違いの中にある。
本文注: ウイルヘルム トキュディデス ロッシエル氏は、あるはずもないロバの巣を発見した。彼がなした重要な発見とは、剰余価値の形成または余剰生産、そしてその結果ともなる資本の蓄積は、一つには、今日の資本家の節欲に負っており、もう一つには、文明水準の最低段階では、より強い者が、より弱き者に節約を強いたことによるのかもしれない。というものである。一体何を節約するのか? 労働をか? または資本家にとっては存在もしない剰余富裕をか? (superfluous wealth that does not exist 訳者としては、この訳に自己満足を感じている。ここは向坂訳の「存在しない過剰生産物をか?」や、余剰財産をか? よりも、自身の富への無制限感覚、労働者の富への不当感覚という 皮肉感 がよく出ていると思うがどうであろうか。)
ロッシエルのごとき人々をして、剰余価値の起源を説明させるものは、資本家の妥当的剰余価値を、多少なりともまことしやかに 趣向を凝らして弁明させるものは 何であろうか。他でもなく、それは、彼等の実際の無知と、彼等の、価値と剰余価値の科学的な分析に対する後ろめたい恐怖である。そしてまた、そこに存在する 全く居心地が悪いであろう力 による結果を受け入れることに対する後ろめたい恐怖である。
( 向坂訳も書き添える。「実際の無知のほかに、価値および剰余価値の良心的な分析と、おそらく油断のならぬ反警察的な結論とに対する、護教者的恐怖である。」これでは、油断のならない護教者集団のテロ対策警察論にもなりかねない。)
(12) 一方において、可変資本の価値と、可変資本によって買われた労働力の価値は等価であり、そして、労働力の価値が、労働日の必要部分を決めるのであるから、そしてまた、他方において、剰余価値は、労働日の剰余部分によって決められるのであるから、剰余価値の可変資本に対する比率は、剰余労働の必要労働に対する比率に同じと言える。別の言葉で云えば、剰余価値率は、s / v = 剰余労働 / 必要労働 である。
両比率 s / vと、剰余労働 / 必要労働 は、同じ内容を違った方法で表している。一つは、実体となった労働と、予め組み込まれた労働との比を、もう一つは、生まれた労働と、流れ去った労働の比を表している。(in the one case by reference to materialised, incorporated labour, in the other by reference to living, fluent labour. 英訳はこうだが、この部分の向坂訳は情けない。「一は対象化された労働の形態で、他は流動的な労働の形態で表現する。」とある。意味をなさない。)
(13) 従って、剰余価値率は、資本による労働力の搾取の度合いを正確に表現するものである。または、資本家による労働者の搾取の度合いを正確に表現するものである。
本文注: 剰余価値率は、労働力の搾取の度合いを正確に表すものではあるが、搾取量の絶対値を表すことにはならない。例えば、もし、必要労働が5時間であって、剰余労働も同じく5時間であるとすれば、搾取率は100%である。搾取量は、ここでは、5時間と計量される。他方、もし、必要労働が6時間で、剰余労働が6時間ならば、搾取率は前と同じく100% に留まるが、実際の搾取量は20% 増大して、5時間から6時間となる。
(14) 我々の例では、生産物の価値を、410ポンド不変 + 90ポンド可変 + 90ポンド余剰 と仮定した。また前貸し資本を500ポンドと仮定した。通常の勘定法に習って計算するならば、我々は、剰余価値の比率の様なもの ( 一般的には利益率と混同されているため ) として、18% を得るであろう。この比率は、カレー氏やその他の同調者達には、ご納得がいく驚きをもたらすに足る程度の低さであろう。しかし真実は、剰余価値率は、 s /C でも s /(C+v) でもない。すなわち 90/500 ではなくて、90/90 または 100% であり、一見したような外観上の搾取の度合いの 5倍以上の率なのである。我々が想定しているこの設定に関しては、実際の労働日の長さを知らず、そして労働過程が何日なのか、または何週なのかの期間をも知らず、同様、雇用されている労働者の人数も知らないが、それにも係わらず、剰余価値率 s/vに関しては、我々には、正確に、明らかにされているのである。その等価である表現、労働日の二つの部分の間の関係、剰余労働 / 必要労働によってすでに明らかにされているのである。この関係はここでは、等式の一つであり、その比率は100% である。この結果を見れば明らかなように、我々の例では、労働者は労働日の半分を自身のために働き、後の半分を資本家のために働く。
(15) であるから、剰余価値率の計算方法は、簡単に云えば、次のようになる。生産物の全価値を取り出し、そこに単に再現されているに過ぎない不変資本を0 と見なせば、そこにあるものが、商品を生産する過程において実際に創造された価値そのものである。もし、剰余価値量が与えられているならば、可変資本を見つけるには、そこにあるもからその剰余価値量を引けばいいだけである。もし、逆に、後者が与えられているならば、剰余価値量が求められる。共に与えられているならば、ただの最終的演算をなせばいいだけである。すなわち、s /v、 剰余価値の v 可変資本に対する比率を計算すればよい。
(16) この方法は極めて単純なものであるが、その根底となるこの聞き慣れない剰余価値率の考え方を適用して行くために、誤用を避けるために、幾つかの例について、読者に実習していただく。
(17 ) 最初に、我々は一つのケースとして、ある紡績工場を取り上げてみる。10,000個のミュール紡錘があり、アメリカ産の綿から32番手の撚糸を紡ぎ、毎週 1紡錘当り 1重量ポンドの撚糸を生産する工場である。屑となる分は6 %と仮定する。この状況下で、週当り 10,600重量ポンドの綿が消費される。従って、600ポンドがごみ屑となる。綿の価格は、1871年4月現在では、1ポンドあたり7 3/4ペンスであった。であるから、原料価格は、約342英ポンドとなる。( 訳者注: 1ポンドは20シリング、1シリングは12ペンス ) 10,000個の紡錘については、前処理機と原動力も含めて、我々が、紡錘当り1英ポンドと仮定すれば、全体では、10,000英ポンドとなる。摩損分については、10% または 年1,000英ポンド= 週20英ポンドと置く。建物の賃借料は 300英ポンド/ 年 または 6英ポンド/ 週と想定する。石炭の消費量は、( ゲージ値で100馬力、60時間の使用において、時間当り、馬力当り 4重量ポンドの石炭と、工場内の暖房用分を含めて) 週11トン トン当り8シリング6ペンスとして、週では 約4 1/2英ポンドとなる。ガスは週 1英ポンド、オイル他で 週 4 1/2英ポンドとなる。以上のように、補助材料の価格は、計 10英ポンドとなる。従って、週当りの生産物の価値の不変部分は、378英ポンドである。賃金は、週当り 52英ポンドである。撚糸の価格は、12 1/4ペンス/ 重量ポンド であるから、10,000重量ポンドでは、総計 510英ポンドとなる。剰余価値は、従って、この場合は、510 - 430 = 80英ポンドとなる。生産物の価値の不変部分を= 0 と我々は、価値の創造においては何も役割を持っていないのであるから、この部分を 0 と置く。 週当りで創造された価値としては、132英ポンドが残る。つまり、= 可変分52英ポンド + 剰余分 80英ポンドである。従って、剰余価値率は、80/ 52 = 153 11/13% である。平均労働10時間労働日とすれば、その結果は、
必要労働 = 3 31/33 時間、そして 剰余労働 = 6 2/33 時間となる。
本文注: 上記のデータは、あるマンチエスターの紡績業者( 訳者注: または紡績工 ) より私に与えられたもので、信頼できるものでる。
(18) もう一つの例、ヤコブが次の様な 1815年の計算結果表を見せてくれた。予め幾つかの項目に整理したものとはいえ不完全さは免れないが、それにも係わらず、我々の目的にとっては充分である。この表では、1クォーター当りの小麦を 8シリングと仮定している。また、1エーカー当りの平均的収穫を22ブッシェルとしている。
ヤコブの表 1エーカーの土地が 生産した価値
種 子 1ポンド 9シリング | 10分の1税, 地方税, 国税 1ポンド 1シリング |
肥 料 2ポンド10シリング | 地 代 1ポンド 8シリング |
賃 金 3ポンド10シリング | 借地農業者の利潤と利子 1ポンド 2シリング |
小 計 7ポンド 9シリング | 小 計 3ポンド11シリング |
(19) 生産物の価格が、その価値と同じとすれば、剰余価値は、利潤とか利子とか地代 他 の項目に分配されていることを我々は見出す。これらの項目の詳細について我々は何も関心を持たない。我々は、これらをまとめて単純に足し算すれば、その合計、つまり剰余価値 3ポンド 11シリング 0ペンスを得る。種子と肥料に支払われた 計 3ポンド 19シリング 0ペンスは、不変資本であるから、我々はそれを0と置く。残りの額 3ポンド 10シリング 0ペンスは、前貸しされた可変資本であり、この結果から、新たな価値、3ポンド10シリング0ペンス+ 3ポンド11シリング0ペンス、が、ここで生産されたことになる。従って、s/v = 3ポンド11シリング/ 3ポンド10シリング であり、算出された剰余価値率は、100% 以上となる。労働者は、彼の労働日の半分以上を 剰余価値を生産するために働く。この剰余価値を、いろいろと違った人物が、いろいろと違った口実のもとに、彼等の間で分け合うのである。
本文注: この上記本文で示された計算は、単に説明用として表したものである。ここでは 価格 = 価値 と仮定しての話である。我々は、いずれ、第三巻 において、平均価格を仮定する場合でさえも、このような単純な方法では剰余価値率の実数をみることができないことを知るであろう。
訳者余談を付す。 剰余価値率の実体数値を計算して明らかにすることは、現資本主義社会の諸データでは単純には行かない。どのようにその詳細に迫るかは、残念ながら第一巻のみの英語版の範疇にはないかも知れない。だからといって、原理は明瞭であり、剰余価値率が消失するはずもない。資本家はこの数値自体は全くどうでもいいことであるから、その存在すら知らなくてもなんの不便も、論理上の混乱も生じない。意味がない数値の計算に興味も意義も認めてはいない。だが、うしろめたく存在していることを振り払うのに躍起になるだけの存在感は拭えないらしい。だから反発し、妨害し、データを改竄する。賃金計算や時間管理の複雑怪奇こそそれを象徴している。まして利益の分配はどこまでもぶっ飛んでいて、だれも分からない位にちらばっている。ある国の貧乏人の口座に、ある日突然飛び込み、瞬時に飛び出したりするのである。でも、計算しようと思えば、それなりの方法はいくらでもある。ただ、その方法が、その社会の産物だということにある。
[第一節 終り]
第二節
生産物自体の比例部分に該当するものによる
生産物の価値の諸要素の表示
(1) それでは、ここで、どのようにして資本家が 貨幣を資本に変換したか を見せてくれた例に戻ってみることにしよう。
(2) 12時間の一労働日の生産物は、20重量ポンドの撚糸であって、30シリングの価値を持っている。この価値の8 /10 または24シリングは、単に、生産手段の価値 (20重量ポンドの綿 20シリングと紡錘の磨耗分 4シリング) を再現しているものである。従って、それは、不変資本である。残りの 2 /10 または6シリングは、紡績過程で新たに創造された価値である。このうちの半分は、日労働力の価値を置き換えたものであり、または可変資本である。もう一つの残りの半分は、剰余価値 3シリングを成している。であるから、20重量ポンドの撚糸の価値は、次の様な数式で示されよう。
30シリングの撚糸の価値 = 24シリング 不変資本 + 3シリング 可変資本 + 3シリング 剰余価値
(3) 生産された20重量ポンドの撚糸に、これらの全ての価値が含まれているのであるから、この価値の様々な構成要素は、この生産物の該当する部分に、それぞれ含まれているものとして表わされることができる。
(4) 30シリングの価値が、生産された20重量ポンドの撚糸に含まれているとすれば、8 /10の価値 あるいは不変資本を構成する部分 24シリングが、生産物の8 /10の部分 16重量ポンドの撚糸と言える。その撚糸のうち、13 1/3重量ポンドは、原料の価値を表しており、紡がれた綿の価値である。そして 2 2/3重量ポンドは、4シリングを表し、紡錘 他の、過程での摩損分の価値である。
(5) であるから、撚糸20重量ポンドの紡績に使用された綿の全ては、その撚糸のうちの13 1/3重量ポンドで表されている。この後者重量ポンドの撚糸の中には、確かに重量としては、13 1/3重量ポンド以上の綿はなく、13 1/3シリングの価値しか含んでいないが、6 2/3シリングの追加的な価値がそれに含まれているのである。それが、残りの6 2/3重量ポンドが紡績において費やされた綿の等価分なのである。結果的には、言うなれば、全ての綿20重量ポンドが、13 1/3重量ポンドの撚糸に凝縮されて、あたかも6 2/3重量ポンドの撚糸には、綿が含まれていないかのように見えることになる。他方、この撚糸13 1/3重量ポンドの重量には、補助材料や労働手段の価値の、過程において新たに創造された価値の いずれの1原子も含まれてはいない。
(6) 同様、2 2/3重量ポンドの撚糸には、4シリングの、綿部分を除いた残りの不変資本が、体現化されている。他でもなく、20重量ポンドの撚糸の生産に費やされた補助材料や労働手段を表している。
(7) 従って、我々は次のような結果に行き着く。生産物の 8 /10の部分、または16重量ポンドの撚糸は、その物の有用性という性格において、その他の残余の生産物と同様に、紡績工の労働の成果のごとく見える。が、この関連において見れば、何も、紡績過程で支出された労働を含んではいないし、吸収してもいないのである。それはまるで、あたかも綿が自身で、誰の助けも受けずに、撚糸に変化したかのようである。その外観はまさに奇策というか、騙しのようである。直ぐに、資本家が、これを24シリングで売れば、つまり、彼の生産手段を貨幣に置き換えれば、この16重量ポンドの撚糸が、相当する綿と紡錘摩損分の偽装以外の何物でもないことの証明となる。
(8) 他方の、残りの 2 /10の生産物、または4重量ポンドの撚糸は、12時間の紡績過程で創造された、新たな価値 6シリング以外の何物でもない。この4重量ポンドに移管された全ての価値は、いはば、最初の紡績分の16重量ポンドの中に一体化されるべき原料と労働手段から掠め取ったようなものと云えるかも知れぬ。この場合、あたかも、紡績工が空気の中から4重量ポンドの撚糸を紡ぎ出したようでもあり、または、彼がそれらを、綿や紡錘の助けを得て、まるで降って湧いた自然の贈り物のごとく、何らの価値を移管することもなく生産物を紡いだかのようでもある。
(9) この4重量ポンドの撚糸の中には、この過程で新たに創造された全ての価値が濃縮されている。その一方の半分は、消費された労働の価値 または3シリングの可変資本と等価である。もう一方の半分は、剰余価値 3シリングを表す。
(10) 紡績工の12労働時間が、6シリングを体現するのであるから、30シリングの価値がある撚糸には、60労働時間が体現されていなければならない。そして、この労働時間の量は実際に20重量ポンドの撚糸に存在しているのである。撚糸の8 /10、または16重量ポンドのそれには、生産手段として、紡績過程の始まる前に、48時間の労働が支出され、物体化されているのである。そして、残りの2 /10、または4重量ポンドには、12時間の作業が過程自体において物体化されるのである。
(11) 前のページで、我々は、撚糸の価値が、その撚糸の生産において新たに創造された価値と、それ以前に、生産手段として存在していた価値の総計と 等価であることを見た。
(12) 今、生産物の価値の様々な構成要素が、それぞれ機能的には互いに違っている部分が、生産物自体の比例部分に該当するものによって、いかに表されているかが、ここに示されている。
(13) 生産物を、それぞれ違った部分に分けるというこの方法、そのうちの一つは、ただ、生産手段のために費やされた以前の労働を表し、または不変資本を表し、その他の部分は、ただ、生産過程の中で費やされた必要労働を表し、または可変資本を表し、さらにもう一つの最後の部分は、ただ剰余労働を表し、または剰余価値を表すという このように分けるという方法は、後に、その応用から複雑極まるこれ迄の解けなかった問題において、この簡単な分割の形以上に、重要な分析的な支点となるであろう。( 訳者余談を置きたくなったところだが、読者の分析的支点を邪魔しないように、ここは控えることにしょう。)
(14) 前述の考察において、我々は、総計生産物を、直ぐに使えるものとして、12時間労働日の 最終的な結果として取り扱った。とはいえ、我々は、そのように生産の全段階を通しての総計生産物として見るだけでなく、最終または、総計生産物の 機能的に異なる部分として、それぞれ違った段階で与えられた部分的生産物として表すようにして見ても、前と同じ結果を必然的に得る。
(15) 紡績工は、12時間で、20重量ポンドの撚糸を生産する。または、1時間に、1 2/3重量ポンドのそれを生産する。であるから、8時間では、13 1/3重量ポンドのそれを、または全日で紡がれた全綿量の価値と等価の部分生産物を生産する。同様に、次の1時間36分での部分生産物は、2 2/3重量ポンドの撚糸であり、12時間で費やされた労働手段の価値を表す。これに続く1時間12分で、紡績工は、2重量ポンドの撚糸、3シリングの価値を有するものを生産する。この価値は、彼が6時間の必要労働で創造する全価値と等価である。最終的に、最後の1時間12分で、彼はもう一つの2重量ポンドの撚糸を生産する。その価値は、彼が半日間の剰余労働によって創造する剰余価値と等価である。この計算方法は、毎日の英国工場主の狙いに迎合する。こんな具合に彼は云うだろう。最初の8時間または2/3労働日において、彼は彼の綿の価値を取り返すと。そして、以下残り時間云々と。この方法は、前者と同様、完璧に正確である。事実は、先に述べた最初の方法は、ここでとの違いで云えば、空間に応用したものであって、そこには完成した生産物の違った部分が次々と並んでおり、ここでは連続して生産されたそれらの部分が時間的に取り扱われていると云うことである。しかしながら、この方法は、粗暴極まる思考が伴い易く、もっとはっきり云えば、実際的に価値を産む価値を作る過程に関心を持つばかりに、その過程そのものを理論的に誤解している者の頭の中では、そんな具合となる。そのような人々の頭の中には、次のような思考が入り込むであろう。例えば、我が紡績工が、彼の労働日の最初の8時間において、綿の価値を生産、または置き換える。続く1時間36分で、労働手段の摩損分の価値を、次の1時間12分で、賃金の価値を、そして、剰余価値の生産を工場主に捧げる、それがよく知られるところの、「最後の時間」であると。(イタリック)
これでは、我が貧しき紡績工は、綿、紡錘、蒸気機関、石炭、オイル、その他を、生産し、同時にそれらを用いて紡績するだけでなく、1労働日を5労働日に拡大するという二重の不可思議を行う者に作り替えられる。なぜなら、我々が今検討している例で云うなら、原料と労働手段の生産が、12時間1労働日の4労働日を要求し、そして彼等の願う撚糸が、もう一日のそのような労働日を要求するからである。利益の渇望が、愚かな心情を、このような不可思議の中に想起する。そして、これらを検証する意志など少しも持ち合わせていない おべっか使いの空論家達によって、この愚かな心情が、次のような歴史的にも有名になった論述で主張された。
訳者余談の出番かなと。ここは、読者も簡単な比例計算とその結果の足し算をやらないでは通り抜けられない。だから、計算したであろう。だが、資本家にはほど遠い読者には、資本家のようには計算ができない。5労働日の計算には、資本家の資本家たる妄想も必要になってくる。しっかりと資本家の限りなき欲望を手玉に取って見れば、不可思議な妄想の行き着く所と分かれば、計算できるのである。この部分の向坂訳は、思考停止ものであるばかりでなく、この比例計算の中の12分を他に使ってか、最終の1時間を剰余価値分と短縮する。比例計算をする12分を惜しんでは訳にならない。 私の小さな頭脳がここで、単純な比例計算に5労働日も使ってしまい、いかに疲れたかを知って貰いたい。
もっとも、私の5労働日にはなんらの価値もない。使用価値としても、かなり怪しい。読者諸氏の中には、訳者は何を考えたのかを、反面教師ならぬ、万分の一排除用の教師役にと聞いて置きたいと思われる方も居ないとは限らない。そこで、敢えて我が思考を記述してみることにした。資本家は、労賃を前貸しして、または可変資本を前貸しして、労働者のために、仕事を与えた。そして12時間労働日の後にその等価を得た。労働者が捧げ、資本家が願ういくばくかの剰余価値は、資本家にとっては、労働者への慈悲の等価と思っているだけであるから、ここでは話にもならない。1労働日が過ぎて見れば、資本家には、彼の黄金の頭脳にこびりついた思考が一大疑問として想起される。原料や機械の価値、または不変資本として前貸しした部分がないではないか。全1労働日の価値に対して、全資本の8/10の部分がないではないか。比例的計算をすれば、なんと、4労働日に該当する部分がないではないか。4労働日が、単に賃金を払う1労働日の他に必要であり、1労働日は5労働日となるではないか。と。さて、読者が読み取るものだけが、読者の使用価値であって、訳者のそれではない。
[第二節 終り]
第三節
シーニョアの「最後の時間」
(1) 1836年のあるよく晴れた朝、英国経済学者の才人(フランス語)とよばれるやも知れぬ、かつ、彼の経済学的科学のようなものと、彼の作文の美しきスタイルとでよく知られている ナッソー W. シーニョアは、オックスフォードからマンチェスターに呼び出された。後所において、前所で教えた政治経済学を学ぶために。工場主達は、彼を、彼等の代表選手に選出したのである。単に、新たに通過した工場法に反対するためだけではなく、依然として、より脅威的な10時間運動の議論に 対抗するためである。彼等のいつもの実用的な鋭い感覚では、この学者先生には最後の仕上げ部分がもう少し必要であり、そのことがあるので、彼等は彼に手紙を送ったのであった。マンチェスターの工場主らの授業を受けた教授の側だが、それを体現化して、小冊子を記した。そのタイトルは、「工場法に関する諸論 綿工業に及ぼす影響について」 1837年 ロンドン となる。ここに、我々は、様々の記述の中に、次のようなご指摘を見つけることとなる。「現在の法のもとでは、18歳以下の人間を雇い、1日に11 1/2時間以上働かせることができる工場はない。すなわち、週5日間は12時間で、土曜日は9時間だからである。」
(2) 「さて、以下の分析( ! ) によれば、その様に操業する工場では、全純利益は、最後の時間 (イタリック) から引き出されていることが示されるであろう。私は、工場主が、10万英ポンドを投資したものと想定することにする。8万英ポンドは工場と機械類に、2万英ポンドを原材料と賃金にである。資本が年に1回転するものとし、粗利が15%あるものとすれば その粗利は1万5千英ポンドに相当するものでなければならない。…工場の年の回収額 11万5千英ポンドのうち、各23/2時間の作業が生産するもののは、5/115 または1/23 である。(訳者注: ここはシーニョアの文字がそうなっているというだけのことなので、字句の意味の追及も、比例計算をしてみることも必要はないが、彼の云いたいことが何であるかを、頭に入れながら以下読み進めてもらいたい。) この23/23(全体の11万5千英ポンドを構成するものであるが) のうち、20/23、言うなれば11万5千英ポンドのうちの10万英ポンドは、単純に資本を置き換えるものであり、− 1/23 (または、11万5千英ポンドのうちの5千英ポンド) は、工場や機械類の損耗分を補うものである。残った2/23は、毎日の23時間半(訳者注: 分母のということ)の、最後の二つに該当するのであるが、10%の純利益を生産する。従って、(価格が変わらないものとすれば) もし、工場が11時間半に代わって13時間の作業を保持することができれば、運用する資本に、2千600英ポンドを追加することで、純利益は二倍になる。他方、もし、作業時間が1日1時間減らされることになったなら、(価格が変わらないものとすれば) 純利益は破壊されるであろう。もし、1時間半が減らされれば、粗利も壊滅されるであろう。」
本文注: この様な我々の目的にとって重要でもなんでもない常軌を逸した見解、例えば、工場主が正規の機器類の磨耗分を粗利としてまたは純利として認識しているとか、資本の一部を置き換えるためにと認識しているとか言う主張は無視しておこう。また、彼の数字が正確かどうかについても無視しておこう。レオナード・ホーナーは、「シーニョア氏への書簡」ロンドン 1837年で、俗に云う分析ものと大した違いがないことを明らかにしている。レオナード・ホーナーは、1833年の工場査問委員会の一委員であり、1859年まで、検査官、いや、工場監査官であった人である。彼は、労働者階級のために不滅の功績を成した。彼は、敵意すら抱く工場主と生涯を掛けて戦っただけではなく、工場で何時間も働く「手」よりも工場主の票を重要視する内閣とも戦ったのであった。
理論への骨折りがどうであれ、シーニョアの論述は混乱している。彼が真に云いたいと意図したことは、次のことであった。工場主は、作業者を日11時間半または23/2時間雇う。労働日と同様に、労働年とすれば、それが、11時間半または23/2時間の、その労働日数の1年倍であることに思い当たる。この思いつきによれば、23/2時間 (訳者注: 1/2時間単位で、その23単位分) が年 11万5千英ポンドの生産物を産む、1/2時間 (訳者注: 1/2時間単位で、その1単位分)では、1/23×£115,000、 20/2時間 (訳者注: 1/2時間単位で、その20単位分)では、20/23 x £115,000 = £100,000、すなわち、前貸しした資本と同額と代るものとなる。残りの3/2時間 (訳者注: 1/2時間単位で、その3単位分)は、3/23 x £115,000 = £15,000 または粗利である。この3/2時間のうちの一つは、1/23 x £115,000 = £5,000 を産み、すなわち、機器類の損耗分を補う。更に残った 2/2時間 (訳者注: 1/2時間単位で、その2単位分)、最後の時間が、2/23 x £115,000 = £10,000 または純利益を産む。シーニョアは、彼の小冊子本文で、この最後の2/23 の生産物を、労働日そのものの該当部分にすり替えている。
(3) そして、教授はこれを「分析!」と呼ぶ。もし、工場主達のご講義に彼の信頼を寄せるならば、彼は以下のことを信じたということになる。作業者は、生産において、1日の最も良い部分を、建物や機器類や綿や石炭等々の価値の再生産、あるいは置き換えに費やしたと。ならば、彼の分析は無駄であった。彼の解答は単純に、次のようなものとなろう。-- 紳士諸君! もしも、諸君が工場を、11時間半に替わって10時間稼働とするならば、他の物事にも変動が無ないとすれば、日当りの綿、機器その他の消費は、それに比例して減少する。すなわち、諸君は、諸君が失ったのと同じものを得る。諸君の作業人達は、将来において、1時間半少ない時間を、少なく前貸しされた資本の再生産または置き換えに費やすであろう。- 逆に、教授が工場主達のご講義を更なる質問をすることもなく信じないならば、そして、その筋の専門家として、分析が必要と考えるならば、いろいろ工場主連中に尋ねる前に、他でもなく、作業日の長さと純利益の関係に関する問題ならば、教授は、注意深く、機械類や作業所や原料や労働者を一塊にしないで、まずは建物や機械類や原料 他に投資された不変資本を一つの勘定側におき、そして、賃金に前貸しされた資本を別の勘定側に置くのが妥当である。さて、その上で、教授が、工場主達の計算に従って、1/2時間単位でその2単位分で、作業者が彼の賃金を再生産または置き換えていると言うことを発見したならば、その時は、次のような分析を続けて述べるべきである。
(4) 諸君の数字によれば、作業者は、最後の1時間の手前の1時間で、彼の賃金を生産し、そして、最後の1時間で、諸君の剰余価値または純利益を生産するという。さて、同じ期間では、作業者は同じ価値を生産するのであるから、最後の1時間の手前の1時間の生産は、最後の1時間のそれと同じ価値でなければならない。さらに云えば、彼の労働する間だけが、その全てだけが、彼が様々な価値を生産するものなのである。そして、彼の労働の量は、彼の労働時間で計量されるのである。諸君は、この量を日11 1/2時間と云う。彼は、これらの11 1/2時間の一部を彼の賃金の生産または置き換えに費やし、そして残りの部分を諸君の純利益のために費やす。これ以上には、彼は絶対に何もしない。しかるに、であるから、諸君の説に従えば、彼が生産する彼の賃金も、剰余価値も同じ価値であるから、彼は5 3/4時間で彼の賃金を生産し、もう半分の5 3/4時間で諸君の純利益を生産する。このことは明瞭である。もう一度繰り返すが、2時間で生産される撚糸の価値は、彼の賃金の価値と諸君の純利益の合計額に等しいのであるから、この撚糸の価値の計量は11 1/2時間でなければならず、そのうちの最後の一つ前の5 3/4時間は、その間に生産された撚糸の価値を示しており、そして5 3/4時間は最後の時間で生産された撚糸の価値である。今、我々はどう見るかによって大きく異なる場面に直面している。だから、充分注意 ! してほしい。最後の作業時間の一つ手前の作業時間は、最初の時間と同じで、ごく普通の作業時間であり、それ以上でもそれ以下でもない。ならば、紡績工はいかにして1時間で、5 3/4時間を体現する価値、撚糸の姿となっているものを生産するのか? 真実は、彼がそのような奇跡を行うものではない。彼によって1時間に生産された使用価値は、一定量の撚糸である。この撚糸の価値は、5 3/4作業時間で計量される。そのうちの4 3/4時間は、彼の助けによらず、予め生産手段、綿、機械類、他で体現されている。残りの1時間のみが彼によって加えられたものである。従って、彼の賃金の価値は5 3/4時間の中で生産されるのであり、そして1時間で生産された撚糸の価値も同様5 3/4時間の紡績から成り立っているのであるから、彼の5 3/4時間の紡績によって創造された価値は、1時間で紡がれた生産物の価値に等しいのである。この結果に、なんら魔法はない。もし、諸君が、彼が労働日のほんの一瞬でも、綿や機械類やその他の再生産や置き換えのために、失っていると考えるならば、諸君は皆、間違った道の上に居る。そうではなくて、彼の労働が、綿や紡錘を撚糸に変換するのであり、彼が紡ぐからこそ、綿や紡錘の価値が、それらの自らの価値のまま撚糸に行き着くのである。この成り行きは、彼の労働の質に依存しており、彼の労働の量に依存してはいない。確かに、彼は1時間では、半時間でやるよりも多くの価値を、綿の形から、撚糸に移管するであろう。だが、それは単に、半時間で紡ぐよりは1時間の方がより多くの綿を紡ぐと言うだけのことである。かくて、諸君は気づかれたものと思うが、諸君の主張、作業者は最後の時間の一つ前の時間に彼の賃金の価値を生産し、最後の時間に諸君の純利益を生産するという主張は、彼によって2作業時間で生産される撚糸が、労働日の最初の2時間であれ、最後の2時間であれ、11 1/2作業時間または丁度全日作業、すなわち、彼自身の2時間の作業と9 1/2時間のその他の人々の作業が一体化している撚糸である、ということ以上のものを表してはいない。そして、私の主張、最初の5 3/4時間で、彼は彼の賃金を生産し、最後の5 3/4時間で諸君の純利益をという主張は、只一つ、諸君は、前者分を彼に支払い、後者分は彼に支払わないということなのである。労働者への支払いと、本来ならば労働力への支払いと云うべきところを、簡略化して述べたが、ここはただ、私が、諸君らの専用俗語で話しただけのものである。さて、紳士諸君、もし、諸君が、諸君が支払った作業時間に対して、諸君が支払わなかった時間を較べるならば、それらが、互いに、半日に対して半日であり、その比率が100%、なんとまあ可愛らしい比率であることか、を発見するであろう。さらに、なんの疑いもないことだが、諸君が、11 1/2時間に替えて13時間を法的に獲得するならば、諸君らならやり兼ねないだろうが、作業に追加の1時間半を、純余剰労働として持ち込むならば、後者の時間が5 3/4時間から7 1/4時間労働に増加し、剰余価値の比率は100 %から、126 2/23 %となる。そうなると、諸君ら皆、血色が奇怪しくなって、さらに1時間半のこのような追加を作業日に加えることを求める。率は100 %から200 %かそれ以上となる。別の言葉で云えば、2倍以上ということである。一方、人間の心は面白いものである。特に、財布のことになるとそうしたものである。- 労働時間の減少が、11 1/2時間から10時間へと進めば、諸君の全純利益が捨て犬同然となるのではないかと大げさに悲観する。そんなことはない。他の状況が同じに留まるならば、剰余労働が5 3/4時間から4 3/4時間に縮小する。結末としては、依然として利益をもたらすもので、剰余価値の比率が要するに82 14/23 %となる。しかるに、このような、世にも恐ろしい「最後の時間」という諸君がでっちあげたお説は、至福千年を少しも疑わない信者が最後の審判の日を迎えるというお話以上のお話で、「全く馬鹿げた話」である。もし最後の時間が消えたとしても、諸君にはなんの損失もないし、諸君の純利益もなくならない。また、諸君が雇った少年少女の「心の純粋さ」もなくならない。
本文注: もし、一方で、シーニョアが、工場主の純利益が、英国の綿工業の存在が、世界市場における英国の支配力が、「最後の作業時間」に依存していることを証明したと云うならば、他方では、アンドリュー・ユア博士は、もし、子供達や18歳以下の青年達が、まるまる12時間 暖かで 純粋に道徳的な雰囲気にある工場に置かれる代わりに、1時間早く 残酷で 不真面目な外の世界に追い出されるとしたら、怠惰や悪習のためこころの純粋さを奪われるであろうことを明らかにした、と云うことになる。だが、実際は、1848年以降、工場検査官達は、この「最後の」、この「破滅的な時間」なるもので、工場主達をからかい続けるのを 止めたことがない。1855年5月21日づけの検査報告書で、ホーベル検査官は、「このような狡賢い計算 ( 彼はシーニョアを引用する) が正しいとするならば、英王国の全ての綿工業は、1850年このかた、赤字で作業してきたことになる。」1848年、10時間法が議会を通過した後、ドーセット州の境界からサマセット州にかけて散在するごく少ない亜麻紡績工場のある雇い主は、この法への反対請願をかれらの幾人かの作業者達の肩に強制したのである。この請願の条項には、次の様に書かれている。「貴下の請願人は、子の親として、追加的な暇な1時間は他でもなく、やる気をより損なうことになるであろうと思われる。怠惰は悪徳の始まりであると思っている。」1848年10月31日のこの工場に関する報告書は、次のように云っている。亜麻紡績工場の雰囲気は、これらの有徳で優しいご両親のお子さん達がその中で働くのであるが、原料からの塵や繊維くずで充満している。その紡績室に10分居るのですら極めて不快なものである。なぜなら、繊維くずの雲が、直ぐに、目も耳も、鼻も口も、と入り込むのである。逃れようもない。最も苦痛な感覚なしにはそこに居られないからである。その労働そのものは、機械の発狂的な性急さが、絶え間ない技能と動作を要求し、その疲れをしらぬ監視と制御下で、なされている。ご両親をして、わが子に「怠惰」なる言葉を云わせるのは、何か冷酷無比というべきであろう。子供達は、食事時間を許される他は、まる10時間をこのような雰囲気の中の仕事に拘束され続けるのである。 .... これらの子供達は、近隣の村の労働者より長時間働くのである。 .... この様な「怠惰と悪徳」なる冷酷無比のご高説は、単なる空文句であり、かつ最も恥ずかしい偽善的な言葉として銘記されるべきである。....約12年前、一部の人々が、工場主の全純利益が最後の時間の労働から湧き出すものであって、従って、作業日を1時間減らすことは、彼等の純利益を破滅させるであろうという説に衝撃を受けて、政府筋もその説を是認したことから、そのことを強く公的にも宣言したものだが、その最初の「最後の時間」というお題目の発見が、今、かなり改良されて、利益と同様に道徳も含まれ、子供達の労働時間がまる10時間へと短縮されるならば、彼等の道徳も彼等の雇い主の純利益も共に消えてしまい、これらが、この最後の致命的な時間のいかんに掛かっているという説として再発見する時、かっての一部の人々は、自らの目をほとんど信じられないであろう。(工場検査報告書. 1848年10月31日) そして、その同じ報告書が、純粋な心を持ったこれらの同じ工場主の道徳性と高潔さの例をいくつか紹介している。策略、ごまかし、騙し、脅し、偽造、を用いて、身を守ることも出来ない作業者達に、この種の請願に署名を強いた。そして、彼等をして、全工業界あるいは全国の請願という形で、議会に、押し込ませた、と。これが、いわゆる科学的経済学と云われるものの特徴的現状なのである。すなわちシーニョア彼自身も、彼の反対者も、最初から最後まで、「根源的発見」なる間違った結論について説明することが少しもできなかったのである。彼等の訴えたものは、現実的な体験を申し立てたものであって、何故そのようになるのかも、またその結果としてどこに行き着くのかも、不明のまま残った。シーニョアの名誉のために云っておくが、後に、彼は工場法を精力的に支持した。
(本文に戻る) 諸君らの「最後の時間」の兆しが、諸君らを襲うような時は、いつでも、オックスフォードの教授でも思い出せばいいだろう。では、これにて、諸君、「さようなら」、また先の、昔の世とは違う良き世で合ことになるやもしれぬ。
(5) シーニョアは、「最後の時間」なる叫びを、1836年に発明したが、
本文注: にも係わらず、この学習した教授が、彼のマンチェスターへの旅行からなんらの恩恵もなしであったというものでも無かった。「工場法に関する諸論」の中で、彼は、「利益」、「利子」、その他の「なんらかのより以上のもの」を含めた全純利得が、純粋に、労働者の不払い労働に依存していることを記している。1年前、オックスフォードの学生達や教養をつけた無教養なペリシテ人達のために「政治経済学概論」を書いたが、「リカードの労働による価値の決定論に対置して、利益は資本家の労働から得られ、利子は彼等の禁欲から、別の言葉で云えば、節制から得られることを発見した。」とある。この俗説は古めかしいものだが、「節制」なる文句は目新しい。(以下この本文注を抄訳させてもらった。) でもこれがドイツ語では坊主語の「禁欲」と翻訳されてしまった。
(本文に戻る) 同じ叫びが、1848年4月15日のロンドン・エコノミスト誌上で、経済学の大御所でもある ジェームス・ウイルソンによって、10時間法に反対する論として再現した。
[第三節 終り]
第四節
剰余生産物
(1) 剰余価値を表す生産物のその部分、(第二節の例で与えられた、20重量ポンドの1/10、または2重量ポンドの撚糸) を我々は「剰余生産物」という。剰余価値率について云えば、それは、資本総計との関係ではなく、その可変部分との関係で決定される。それは、相対的剰余生産物量が、この生産物がかかわったそれ以外の全生産物との比で決められるものではなく、その一部分、体現化した必要労働との比率で決められるのと、同じ方法と言える。剰余価値の生産が資本主義体制における生産の最高・最終の目的なのであるから、人の、または国家の富の大きさは、生産された絶対的量によって計られるものではなく、剰余生産の相対的大きさによって計られるべきものなのである。
本文注: 「2万英ポンドの資本を用いて、彼の利益が年2千英ポンドである個人に関して云うならば、何が起ころうと、彼の利益が年2千英ポンド以下に減らずにもたらされるならば、彼の資本が100人を雇用しようと、1,000人を雇用しようと、どうでもいいことである。また、生産された商品が、1万英ポンドで売れようと、2万英ポンドで売れようと、どうでもいいことである。国家の実際の関心も似たようなものではないと云えるか? もたらされる純現実的収入、その地代や利益が同じなら、その国の人口が1千万であろうと、1千2百万であろうと、そのことに重要性はない。」(リカード「原理」) リカードよりかなり以前に、アーサー・ヤングは、次のように云っている。もっとも彼は、剰余生産物とそれ以外の生産物との関係を狂信的に支持する、饒舌で無批判な論者で、彼の評判は彼の功績に反比例しているのだが、「近代の王国においては、全ての領地が、[古代ローマの様式で、小さな独立した農民に分割され、] よく耕されていたとしても、単に、人を繁殖させるという目的を除けば、最も役にも立たない目的の一つであろう。(アーサー・ヤング 「政治の算術論他云々」ロンドン 1774)
非常に奇妙なことに、「強い傾向が見られる… 純国富が労働者階級にとっても有益であると…とはいえ、明らかに、それが純国富の目的ではない。」(Th . ホプキンス, 「土地地代他云々」 ロンドン1828.)
(2) 必要労働と剰余労働の合計、すなわち、作業者が彼の労働力の価値を置き換え、そして剰余価値を生産する過程期間の時間の合計、この合計時間 実際の時間が、彼が働く期間、すなわち労働日を構成する。
訳者余談をちょこっと。明治以来、我が国がやって来たことは、富国強兵、経済復興、高度成長、資本のグローバル化であるが、明らかに労働者階級にとっては何も 有益なことが そこに含まれていた ためしはない。1銭5厘であり、戦争貫徹の材料であり、御用組合であり、不逞の輩であり、消費者さまであり、派遣・期間工・請負さんであり、ローンの貸し先であり、後期高齢者でしかない。だが、時の政権は、国民生活の安心・安全・教育・福祉を与えたと云い、与え過ぎを改革するとも言う。本文注に登場する面々が、早々に喝破しているのに、改めて驚くという不思議がここにある。いや、それどころか、経済の発展、国の発展、資本主義生産体制の発展こそ、労働者階級の発展であると思わせられたままである。
向坂本にも、上記の本文注のところで、「純所得( net wealth ) を、それが労働者階級に労働の可能性を与えるという理由から、労働者階級にとって有利であると主張する強い傾向」があるのは奇妙である。「しかし、それが労働の可能性を与えるとしても、それが純所得であるからではないことは明らかである」(トーマス・ホプキンス, 「地代について」 ロンドン1828.) と訳している。
労働の可能性と純所得の関係が、労働者階級からも、資本家の側からも、どうにも見えていないため、その訳が意味をなしていない。マルクスの、先輩達への暖かくかつ多少の皮肉も含めた笑いが向坂訳からは消えている。すまないが、もう一つ追加する。同じく注のアーサー・ヤングのところなのだが、向坂本は彼を古くからの剰余生産物の狂信者と紹介する。まさか、マルクスがアーサー・ヤングの剰余生産物論を受け売りしたのかとは思わないだろうが、これではマルクスとアーサー・ヤングの剰余生産物論の基本的な違いを捨象して訳しているため、ここでも意味を失っている。
マルクスがもし資本論のどれかの1章だけでも読みたいと思ったら、第10章を読めと云った、その第10章が次にあるが、そこには、我々の戦いと涙と不可思議が沢山書かれている。そこに資本主義社会の実態があり、何故なのか、そして何処に向かうのかが自ずと明らかになる。その前の9章は、そう言う対置から云えば、資本家の思考、存在状況、意図のない意図、資本を扱いながら資本自身の拡大にのみ奉仕させられる擬人化、商品崇拝が取り上げられている。勿論、剰余価値率の章ではあるが、資本家にとっては、これが全く理解できずと言うか、見えない実態が明らかである。どう転んでも、自分達の資本が中心で、それが世界を作っているという思いから抜け出せない。商品は、自分では市場に行くことは出来ない。第2章の出だしを思い出す。労働力商品は、自分では市場に行くことはできない。まさに資本家が連れて行くしかない。その資本家にとっては、利益さえあれば、100人市場に連れて行こうと、10人連れていこうと、どうでもよい。国の利益は、資本家の利益であるから、国民の生活がどうであろうと、そこに経済という富があれば、どうでもいい話となる。労働日がどうであれ、24時間に近ければ近い程いいだけの話が、第10章へと続く。だが、一つだけ感心する。英国の工場査察官の歴史的な努力である。我が国の労働査察官の不在と較べて、この記録の厚大さには圧倒されっぱなしとなる。とんでもないちょこっとになってしまったが、お許しいただきたい。
[第四節 終り]
[第九章 終り]