(1) 商品の流通が、資本の出発点である。商品の生産、それらの流通、さらにそれらの流通形式の発展したものを、商業と呼ぶ。これらの形式が、資本が生起する歴史的基礎を成している。資本の近代史は、16世紀の世界商業と世界市場の創設から記されよう。
(2) もし、我々が、商品流通の物質的実体、その様々な使用価値の交換の内容を度外視して、この流通過程から生じる経済的形式のみを考慮するとすれば、我々は、その最終的結果として貨幣を見つける。この最終的な商品流通の生産物は、資本が出現する最初の形式である。
(3) 歴史的にも明らかなように、資本は、土地所有とは違って、最初から変わらず貨幣形式を用いる。貨幣での富として、商人資本として、そして高利貸し として出現する。資本の最初の出現形式が貨幣であるかどうかを見つけるために資本の発生源を探す必要はない。我々は我々の目で、毎日それを見ることができる。全ての新たな資本は、市場から始まる、市場に登場する、商品市場であれ、労働市場であれ、または貨幣市場であれ、我々の日々の中にさえ、貨幣の形で現われ、ある決まった過程によって、資本へと変換される。
資本の登場である。資本論というからには、資本が登場するのに多少の時間を要したが、やむを得ない。訳者余談である。私の高校や大学の仲間、それに仕事仲間 から見たら、私の翻訳など、信じ難い所業である。最近の英文和訳ソフトは英訳資本論を訳せるようになったんだ と思っても不思議ではない。辞書が湿るくらいページを舐めてめくったことだろうか。はたと、英文和訳の無料ソフトがあることに気づいた。ダウンロードして、一気に翻訳ができるようになった。その成果は、我が級友他を、愕然とさせるはずだ。なぜなら、私の翻訳能力を再評価・別格物、ソフトを大きく越えた存在だと確認できるからである。直前部分をソフトが訳すと。
歴史、資本の問題として、土地を所有するとして反対したが、常に金の最初のフォームがかかります。富金持ちのように、表示されている商人の資本とは、高利貸しの。 しかし、発見するために私たちは首都の起源を参照するために必要としている資本金の最初のフォームの外観です。私たちは非常に目が毎日の下で見ることができます。すべての新しい首都で、開始の段階になると、つまり、市場では、私たちの日中の商品、労働、お金のかどうかであっても、お金の形には、明確なプロセスによって資本金に変身させられるしている。
となる。どうだ、まいったか。向坂氏もびっくりの難解さだろう。でも、いろいろ手伝って貰うことにはした。無料が一番。投下資本が要らない。私の労働で、私が認める使用価値を生産する。辞書ソフト様よろしくだ。英訳資本論の翻訳に資本を投じる資本はない。当分、私の才能が一番。笑うな。
(4) 貨幣の ただの貨幣たる存在と、貨幣の 資本としての存在について、我々が気づく最初の違いは、それらの流通形式上の違い以上のものはなにもない。
(5) 最も単純な商品の流通形式は、C-M-Cである。商品の貨幣への変換である、そして貨幣が再び商品に戻る変化である。または、買うための、売り である。この形式と並んで、別の、特別に違った形式、M-C-M を我々は見つけている。貨幣の商品への変換である、そして商品が貨幣に戻る変化である。または、売るための、買い である。貨幣の、後者の方式の流通は、それによって、資本へと変換されるものとなる。すでに、資本としての存在性を有している。
(6) では、さっそく M-C-M なる回路についてもう少し近寄って調べてみよう。それは、他とも同じく、二つの相反する局面から成る。最初の局面 M-C または買いでは、貨幣は商品へと変化させられる。第二番目の局面 C-M または売りでは、商品が貨幣へと再び戻るかのように変化させられる。これらの二つの局面の結合は、一つの動きを形作っている。そこでは、貨幣が商品と交換され、そしてその同じ商品がまた、貨幣と交換される。そこではまた、商品は売られるために、買われる。または、買いと売りの形式の違いを無視している。そこではまた、商品が貨幣によって買われ、次いで貨幣が商品によって買われる。その結果は、その過程の各局面はそこから消え失せ、貨幣のための貨幣の交換 M-M となる。もし、私が2,000重量ポンドの綿を100ポンドで買い、その2,000重量ポンドの綿を110ポンドで転売するとすれば、私は、事実上、100ポンドを110ポンドに、貨幣を貨幣に変えたことになる。
(7) もし、二つの等価である貨幣計100ポンドと同貨幣計100ポンドをこの方式で交換するのが意図というならば、このM-C-M なる回路は馬鹿げたもので、無意味であることはこれこそ明らかであろう。けちんぼさんの計画の方がよほど分かりやすく、確実である。彼は、100ポンドを流通の危険に晒すかわりに、じっとして置く。なのに、商人は、綿に100ポンドを支払ったそれを110 ポンドで売るか、100ポンドとするか、または、50ポンドにさえ替えるか、いずれにしても、彼の貨幣は、これら全ての場合において、独特の、他には見られない特異な動きをしている。農夫が彼のトウモロコシを売って、その貨幣で全く別の布地を買うということとは、全く異なる種類のものである。従って、我々は、まず最初に、これらのM-C-M と C-M-Cという二つの回路形式の性格について調べてみなくてはならない。そうすれば、単なる形式の違いの根底にある本当の違いが、おのずから明らかになろう。
(8) まずは、二つの形式に共通するものを見てみよう。
(9) 両回路とも、同じ二つの相反する局面に分解することができる。C-M 売り、と、M-C 買いである。これらのそれぞれの局面には、同じ物質的要素、商品と貨幣があり、また同じ経済劇の出演者、買い手と売り手が互いに相対している。(色が違っている部分はラテン語) それぞれの回路は、同じ二つの相反する局面の結合体である。そして、それぞれのこの結合体は3組の契約関係者の介在によってもたらされる。そのうちの一組は、売るだけであり、もう一方は買うだけ、だが3番目は、買い そして 売る の両方を行う。
(10) 回路 C-M-C を、回路 M-C-M と区別しているまず第一のものは、連続する二つの局面の順序が逆になっていることである。単純な商品流通は、売りで始まり、買いで終わる。だが、貨幣の資本としての流通は、買いで始まり、売りで終わる。一つのケースでは、開始点も到達点も共に商品である。他のケースでは、それが貨幣である。一番目の形式では、運動は貨幣の介在でもたらされる。二番目は商品の介在でもたらされる。
(11) C-M-C の流通においては、最後は、貨幣が商品に変えられる。その商品は使用価値として役割を果たす。貨幣は、この一度に全てを費やす。逆の M-C-M ではこれとは違って、買い手は、貨幣を出すが、買い手として貨幣を回収するために支出するのである。彼の商品の買いに、彼は貨幣を流通に投入するのは、その同じ商品の売りで、その貨幣を再び引き戻すためである。彼は貨幣を行かせるが、それはただそれを再び取り戻すという狡賢い意図が伴っている。従って、貨幣は費やされるわけではなく、単に前貸しされただけである。( 色が変わっている部分は、本文注に、売るために買うならば、用いられた額は前貸し貨幣と呼ばれる。というジェームス・スチュアートの文献からの引用句を置いている所である。英文では、money advanced である。そうでない場合は、支出 expended と云われるだろう。と続いている。なお、訳者の注も: この前貸しは、労働力を資本家が買う場合に登場する。この回路 M-C-M との関連抜きでは、一瞬意味が逆転しかねないほど重要である。ぜひ、ご記憶されたい。余計とは思うが。)
(12) 回路 C-M-C で、同じ貨幣断片が、二度その位置を変えた。売り手は買い手からそれを得て、それを別の売り手に支払った。この完成した流通は、まずは、商品に対する貨幣の領収書で始まり、商品に対する貨幣の支払いで終了する。M-C-M なる回路では全く逆である。ここでは、貨幣断片は、その場所を二度も変えない。変わるのは商品の方である。買い手は、売り手の手から、それを手に取り、他の買い手に手渡す。単純なる流通で、同じ貨幣断片が二度位置を変えたのと似て、商品は、一方から他方へと通過する。そのように、ここでは、同じ商品の二回の場所の変化が、貨幣の出発点への還流をもたらす。
(13) そのような還流は、それに支払われた以上で売られる商品に依存しているわけではない。この子細は、戻ってくる貨幣の量のみに意味がある。買った商品が転売されるやいなや、還流自体が成立する。別の言葉で云えば、回路 M-C-M が完成するやいなや貨幣が還流する。であるから、ここで、我々は貨幣の資本としての流通と、単なる貨幣としての流通の明白な違いが分かる。
(14) 回路 C-M-C では、貨幣は一商品の売りによってもたらされるが、直ぐに再び、他の買いによって、持ち去られて、この回路が完全に終了する。
(15) それにもかかわらず、その単純な回路で、貨幣の還流があって、出発点に戻って来るということがあるならば、それは、ただ新規のものか、その活動の繰り返しでしか起こり得ない。もし、仮に、私が1クォーターのトウモロコシを3ポンドで売るとしたら、そしてこの3ポンドで布を買うとしたら、貨幣は、私に関する限りでは、これに費やされて、お終いである。貨幣は、布の商人に所属する。もし私が今度さらに、に番目の1クォーターのトウモロコシを売れば、貨幣は確かに、私の所へ戻ってくる。しかしながら、最初の取引の結果としてではなく、その繰り返しの帰結として、にすぎない。私がこの二番目の取引を新たな買いで完成すれば、立ちどころに貨幣は再び私を置き去りにする。従って、この回路 C-M-C において、貨幣の支出は、その還流について、なにも関係がない。他方、M-C-Mにおいては、貨幣の還流はこの、まさに、この支出様式によって実施される。還流がなければ、この実施は失敗である。または過程が遮断されたか、未完状態となる。その補完的かつ最終的な局面、売りが不在である。
(16) 回路 C-M-C は、一商品を以て始まる。そして、他の商品で完成する。その商品は、流通から離脱し、消費に入る。消費は、欲求の充足である。別の言葉で云えば、使用価値であり、それが最終目的である。回路 M-C-M はこれとは違って、貨幣で始まり、貨幣で終わる。その際立つ動機は、そして魅惑する到達点は、当然ながら、唯一つ、交換価値である。
(17) 単純な商品の流通は、その回路の両端に、同じ経済形式を持っている。それらは、商品であり、等価の商品である。しかし、それらはまた、同じく使用価値ではあるものの、それらの特質は違っている。例えば、トウモロコシと布である。それぞれの物には、社会の労働が体現されている、その生産物の交換が、ここでは、その運動の基礎を形作っている。これと違って、回路 M-C-M なる流通は、最初は、目的がないように見える。なぜかと云えば、同語反復だからである。両端には同様、同じ経済形式を持っている。それらは貨幣であり、そして、だから、質的に違っている使用価値ではない。なぜなら、貨幣は、商品の変化した形式ではあるが、ここでは、それらの特異なる使用価値は消失している。100ポンドと綿との交換、そして、そこで、この同じ綿を再び100ポンドに交換、ということは、単なる貨幣と貨幣との、同じものと同じものとの、交換の、遠回りでしかない。この交換は無目的で馬鹿げたものに見える。一方の貨幣総計と他のそれとを区別できるのは、ただそれらの量だけである。従って、過程 M-C-M の性格と傾向は、その両端の質的な違いに帰すべきものは何一つなく、ただそれらの量的な違いの一点にある。最初の開始点で投入したもの以上の貨幣を流通の完了時点で引き出すことにある。100ポンドで買われた綿は、多分、100ポンド+10ポンド または100ポンドで転売されるだろう。であるから、この過程の形式は正確には、M-C-M' である、と言うことは、M' = M+ΔM = 最初の額が増大したもの、増加分が加算されたもの となる。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、無傷を維持しているばかりでなく、自身に剰余価値または自己拡大を加えているのである。この運動こそ、貨幣の資本への変換なのである。
(18) 勿論、C-M-C にあっても、両端のC-C、トウモロコシと布にあっても、異なる価値の量を表してしまうことがあるかもしれない、それもまたあり得ることである。農夫は、彼のトウモロコシをその価値以上で売るかもしれぬ。または布をそれらの価値以下で買うかもしれぬ。他方、布の商人によっても彼はそのようにされるやも知れない。とはいえここで考察している流通形式では、そのような価値の差は、純粋に偶然的なものである。トウモロコシと布が等価であるという事は、この M-C-M 過程の全ての内容を、少しも損なうものではない。それらの価値が等価であることが、むしろその普通の流れにとっては必要なる状態と言える。
先に行く前に、この辺りで、訳者余談を置いておきたい。ここでは、C-M-C とかM-C-M とかの回路線図が沢山並ぶ。訳していて、今どの線図を訳しているのか迷うと、また取り違えていると、訳文が奇怪しくなる。どうしても集中しなければならいない。その一技法というか、訳者は、この線図に名前を付けて、頭に入れ、訳に集中することにしたのである。
C-M-C は子音的に読めば、コマコと読める、そこでこの名前を駒子とした。小説にでも出て来そうな日本女性がイメージできる。他方 M-C-M はメコメ と読んで、漢字を、目米とした。日米に似て、経済的関係が悩ましい。こうすれば、今どの回路の内容を訳しているのか、しっかりと頭に入る。読者にお薦めしていいものかどうか、余計なお世話だとは思うが、参考にして貰えば、ありがたい。
もう一つ、ここまで読んでくれば、前貸し貨幣の内容が非常に明確になった。単に前貸しとか後払いとかの関係とは違って、前貸しあるいは前貸し貨幣は、明確に、一儲けを企む貨幣であり、余剰価値を狙う貨幣であり、自己拡大目的の貨幣の意味である。前貸し以外の訳も考えられるところではあるが、向坂氏他では、前貸しと訳されており、和文資本論では特徴的な文字である。かなりの普遍性を獲得している文字である。だから踏襲することにしたが、この点の把握が欠けると、労働力商品に前貸しするという文字に途中から出会った人は、マルクスの時代は給料前払いであったが、今の時代にはそんなものはない。働いた後で給料をもらう。マルクスの資本論は現状にそぐわない。と、愚にも付かぬ勘違いする恐れがある。ここまで読んできた読者にはすでに無縁のものではあるが、しかと釘をさして置きたい点である。
(19) 買いのための 売りの行動の繰り返し、または、更新は、常に、いわゆる、消費 または、決まった欲求という目的を持った、その物 によってしっかりと結び付けられている。その目的なるものは、全く、流通局面の外に存在している。しかし、売るために買う場合は、この逆で、始めも終りも同じもの、貨幣、交換価値である。であるから、この運動には際限がない。疑うまでもなく、M が M+ΔM となる。100ポンドが110ポンドとなる。が、これらの質的な点のみについて見れば、110ポンドは、100ポンドと同じである。すなわち貨幣である。そして量について考えれば、110ポンドは、100ポンドに似て、明確なる金額であり、無限ではない有限の価値である。今、この110ポンドを貨幣として使ってしまえば、それらはそれらの役割を演ずることを止める。もはや資本ではない。あるいは流通から降りて、退蔵に固まれば、そして、最後の審判日が来る迄そのままならば、1ファージングの利子も生まないであろう。だがもし、一旦、価値の拡大を意としたら、あたかも、100ポンドを110ポンドへと価値拡大しようという誘因に乗るならば、そのいずれも、交換価値の表現以外ではなくなる。そのいずれも、同じ使命感の途上にある。価値増殖、可能的な絶対的富への接近である。確かに時間的な差もあり、最初に予め投じられた価値、前貸し分の100ポンドは、流通において、付け加えられた余剰価値の10ポンドとは区別できるものではあるが、瞬時にその差は消失する。過程の最後に、我々が受け取るのは最初の100ポンドを片手に、もう片方の手に剰余価値の10ポンドを受領するというものではない。我々は単純至極に110ポンドの価値を得る。このまさにこの110ポンドは、かって元の100ポンドが係わった過程、増殖過程に入る状態と適格性を備えた状況にある。貨幣は、ただその過程を再び始める状態でのみ、その運動を完結する。従って、ありとあらゆる別々の回路、買いとそれに続く売りが完成する回路、の最終結果は、それの新たな回路の開始点となる。単純なる商品の流通 - 買うために売る - は、再流通に繋がらない、つまり、使用価値を充当するとか、欲求を満足させるとか、の目的のために遂行される方法である。貨幣の資本としての流通は、これとは違って、自身で終わる。価値増殖が、ただその事のみが新たな運動として絶えず惹起する。資本の流通は、かくて、際限がなく、止むを知らない。
(20) この運動を意識的に代理するならば、貨幣の所有者は、資本家となる。彼なる人が、いやむしろ彼のポケットが、貨幣の始点であり、帰着点である。価値増殖、流通 M-C-M の客観的原理 または、主要バネが、彼の主観的目的となる。そしてそれがかってなかったそれ以上の富、あらゆるものをこそぎ取ったただの富の占有となる限りにおいて、それが彼の操作の唯一の動機となる。価値増殖、それで彼は資本家として機能する。これこそ、資本の擬人化であり、その意識と意志を授けられた。従って、使用価値は、資本家の実際の目的として、省みられることはあり得ない。それぞれの一売買において利益を図ることでさえも省みられるものではない。休みなく、終りのない利益作りだけが、彼の目指すものなのである。この果てしない私腹に続く貪欲、この熱望が交換価値を追うのだが、この貪欲は、資本家とけちんぼに、共通している。が、けちんぼは、ただの狂った資本家にすぎないが、資本家は、正気のけちんぼである。終なき交換価値の増大、けちんぼ にとっては、流通から彼の貨幣をいかに保全するか、その方法探しに励むことであるが、その増大は、より敏感なる資本家によって、常に、それを、流通に新たに投入することによって達成される。
(21)独立の形式、すなわち、単純な流通において、商品の価値を表す貨幣形式は、ただ一つの目的、すなわち、それらの交換の役を果たし、運動の最終結果においては、消失する。他方、流通 M-C-M では、貨幣も商品も共に、それらの価値の異なる存在形式を表す。貨幣は一般様式、商品はその特別の、言うなれば、偽装様式を表す。それは、常に、一つの形式から他の形式に変化している。それによって失われることもなく、そして、そのように、自動的な行動的性格を帯びる。もし、我々が、今、その当然なる成り行きにおいて、連続的に自己拡大する価値を表す二つの異なる形式のそれぞれを取り替えるとしたら、直ぐに我々は、これらの二つの命題に至る。資本は貨幣である。資本は商品である。しかしながら、事実、価値は、ここでは、過程の能動的要素であり、その過程において、常に、貨幣と商品の形式を交互に表す。それは、同時に、大きさを変え、自身から余剰価値を放出することで、当初の価値から自身を区別する。別の言葉で云えば、自発的に拡大する。この運動によって、その成り行きにおいて、それは余剰価値を自身に加える。それが、それ自身の運動であり、その拡大である。であるから、自動的な拡大となる。なぜなら、それが価値だから。それは、自身に価値を付加することができる不可思議な性質をいま獲得した。それは、生きた子孫をもたらす。または、少なくとも、金の卵を産み落とす。
(22)従って、価値は、そのような過程の能動的な要素となり、ある時は貨幣の形式を取り、別の時には商品のそれを取る。そしてこれらの変化を経ながら、それ自身を保存し、拡大する。それは、自らの独自性を、いついかなる時においても、確立できるように、その手段として、ある独立形式を要求する。そうして、この形式として、ただただ、貨幣の姿を所有する。貨幣の形式のもとで、価値は始まり終わる。そしてまた始まり、そのことごとくの作動はそれ自身の自発的発生機なのである。その出発点は、100ポンドであった。それがいまは110ポンドであり、以下同様と続く。しかし、貨幣自身は、価値の二つの形式の一つに過ぎない。なんらかの商品の形式を取らずには、資本となることはない。退蔵とは違って、貨幣と商品の間には、なんら敵対関係はない。資本家は、あらゆる商品がなんであるかを知っている。その商品が何であれ、貨幣であることを知っている。商品の形がみすぼらしかろうと、臭い匂いがしていようと、確信と事実において貨幣であり、たとえ割礼していなくともユダヤ人であり、そして、それ以上のもの、貨幣からより多くの貨幣を作り出す驚異的手段なのである。と知っている。
(23)単純な流通 C-M-C では、商品の価値は、それらの使用価値からは最も独立した形式で、達成された。すなわち、貨幣形式であった。しかし、その価値が、今度は、流通 M-C-M では、または資本の流通では、たちまちそれ自身を独立したものとして表す。それ自体の動作を与えられて、それ自体の存在過程を瞬時に通り抜けて、自身を表わす。その存在過程の中では、貨幣も商品も単なる形式で、相互に、そのように表れたり、それを脱ぎ捨てたりする。いやむしろ、それ以上である。商品達の関係を単純に表す代わりに、それは今、いわば、それ自身との私的な関係に入る。それは、元の価値としての自分と、剰余価値としての自分を区別する。まるで、父が自分を、自分と息子から区別するかのように。だが、両者とも同じ自分で、自分と同じ年齢のままである。(訳者注: この部分の英文は、as the father differentiates himself from himself qua the son, yet both are one and of one age:である。文中の qua はラテン語で、andに近かく、一体的なwith でもあると独断的推定。) すなわち、ただの、10ポンドの剰余価値が、前貸しされた元の100ポンドを資本となす。そうなれば、すぐに息子が、息子によって、父が、そして息子がということになり、すぐに、それらの違いは消失し、再びかれらは一つのものになる。110ポンドである。
(24)従って、価値は、今、過程によって、価値となる。過程における貨幣であり、また、そのようにして、資本である。それは、流通から出てくる。またそれに入る。その中で、自身を保存し、自身を倍にする。大きく拡大されて、そこから戻ってくる。そして、いつも新たなに、同じ事を始める。(本文注: 資本は、富を積み上げる果実の種、永遠の増殖種 シスモンディ 1819 フランス語 ) M-M' 貨幣を産む貨幣、これが、最初の通訳である重商主義者の口から出た資本の叙述である。
(25)得るための買い、または、より正確に云うなら、より高く売るための買い M-C-M は、明確なる特別の形式、唯一つの種類というべきもの、資本 として現われる。すなわち、商人資本である。しかし、産業資本もまた、貨幣である。それらは商品に変えられ、これらの商品の売りによって、再びより多くの貨幣に変えられる。流通局面の外部で、いかなる事件が勃発しようと、その買いと売りの合間で発生しょうと、この運動の形式に影響することはない。最後に、利子生み資本の場合において、流通 M-C-M' は簡略化される。我々は、途中段階抜きで、結果を得る。M-M' "ぶっきらぼうに云えば" それは、貨幣はより多くの貨幣に値する。価値はそれ自身よりも偉大である。( 色の変わっているところは、フランス語 訳者注)
(26)それゆえに、M-C-M' が、現実として、流通局面の中で一見したところでは、資本となるための一般公式である。
[第四章 終り]